コモ湖1
コモ湖1
みなさんもおそらくそうであると思うが、自分が旅した場所が外国映画やテレビに登場したら、思わず身を乗り出すこともあるのではないだろうか。
コモ湖に逗留したのは7月中旬、北イタリアの夏は過ごしやすいと思っていたが、どうしてどうして、日中の日射しは思いのほか強かった。
 
遊覧船に乗って湖上に出ると、東からの微風が真上から照りつける太陽を幾分かやわらげてくれる。三十代はイビサに、四十代はアンティーブにセカンドハウスをと夢想していたのだが、一年に一回行くにも交通費がバカにならないなどと現実的になるから、夢からさめてしょげてしまうのである。
 
コモ湖2
コモ湖2
コモ湖の別荘群は、夏の日射しにも冬の雪にも耐えうるような工夫をこらしているのだろう。耐熱性、保温性の両方に適した石材や漆喰を、場合によっては木材を使っていることが湖上からもみてとれ、酷暑のなか涼感を求めた人々のおもいがあらわれている。
 
長い間生きていると誰にでもわかることで、人生常に順風満帆というわけにはいかない。順境で耀くのはあたりまえ、逆境で耀くことこそ真の価値があるというものだ。それにしても、逆境で耀くことのなんと難しいことか。
 
コモ湖3
コモ湖3
コモ湖を遊覧して、この別荘がいちばん気に入った。別荘の多くは家々に隣接しているが、この別荘は独立していて、道も見てのとおり一本しかない。大きさも客を招くには十分なものであるし、画像左の木陰で朝食を楽しめる。
 
そして密会にも恰好の場所であるように思えるのだ。北イタリア、湖、森、澄んだ空気、古風な洋館。
 
コモ湖4
コモ湖4
コモ湖のことを熱心に書いたヨーロッパの著名な作家がいる。
ゲーテは『イタリア紀行』(岩波文庫)でローマ、ナポリ、フィレンツェなどに紙面をついやしたが、ミラノやコモ湖については一切ふれていない。
 
アンリ・ベールという名のフランス人は1800年5月、ナポレオンの第二次イタリア遠征に従軍したさい、北イタリアの魔力に魅了されたもののようである。魔力の中には若いイタリア女性も含まれていたと思われる。
 
彼はそのとき弱冠17歳であったが、それから17年後、イタリアを旅した模様を綴った
『1817年のローマ、ナポリ、フィレンツェ』(新評論「イタリア紀行」)や、自伝『アンリ・ブリューラルの生涯』(アンリ・ベール50歳時の作品)などに記述している。
 
『この幸福のことを細かく書こうとすると、わたしは嘘をつき、小説をつくることになってしまいそうだ』と。
 
実際彼はウソつき、いや、小説家になってしまった。
そして振り返って、1800年が一生の最も美しい時期であったとの判断を下している。
 
彼の自著「イタリア紀行」では、
『今朝5時に、青と白の美しい天幕をつけた小舟でコモを出発した。山々はほとんど切り立って湖水に落ち込んでいる。ここはスコットランドの湖水地方と同じくらい峻険な様相をしている。独特で、優雅で、絵のような、逸楽的な建て方の別荘‥コモ湖を囲む山々は頂上まで栗の木に覆われている。
村は山の中腹にあって、樹木の上に突き出ている鐘楼が見える。鐘の音は、遠い距離と湖のさざ波でやわらいでいたが、悩める魂の持主のなかでは鳴り響いた。
どのようにこうした感動を描こうか。』などと述べている。
 
本名アンリ・ベール。ペンネームはスタンダールである。
 
コモ湖5
コモ湖5
スタンダールは『パルムの僧院』の中で、取り憑かれでもしたかのようにコモ湖について語っている。コモ、あるいはコモ湖ということばが何度登場することか。『パルムの僧院』はコモ湖を旅する者の必携書なのかもしれない。
 
すこし長くなるが、コモ湖の描写の一部を以下に列記する。
 
すべてが気高くやさしい。すべてが愛を語っている。文明の醜さを思い出させるものは少しもない。丘の中腹の村々は大きな樹々にかくれ、樹の梢の上には、村の美しい鐘楼のみやびやかな建物がそびえ立つ。小さな畑が、ところどころにこの野生の栗や桜の茂みを中断しているとしても、そこにはよそに植えたよりもはるかにいきいきとし、よく育った植物が茂って目を楽しませる。
 
丘の頂きにはだれでもちょっと住んでみたいと思うような隠棲所が見え、その丘のかなたには、つねに雪でおおわれたアルプスの峻峰が人の目を驚かせ、そのいかめしい姿は、人生のさまざまな不幸を思って、現在の楽しみを大きくするにはどうすればいいかを思いおこさせる。
 
空想は、樹々の下にかくれた小村の鐘の遠音にも動かされ、音は湖面にひびいてやわらぎ、甘い憂鬱とあきらめの調子を帯びて、人間に「人生は逃げて行く。現在の幸福にたいして気むずかしくなってはいけない。いそいでそれを楽しめ」と告げているようだ。
(岩波文庫『パルムの僧院・上』生島遼一訳)

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