2007-06-14 Thu      オシアンの歌(1)
 
 ケルト民族の古歌「オシアン」はジェイムズ・マクファースン(1736〜1796)によってゲール語から英訳された詩集で、古代ハイランドの王の勇猛果敢、憂愁、若い娘や自然の美しさを詩情豊かに描き、18世紀後半のヨーロッパ知識人にあたえた影響ははかりしれない。フランスではロマン主義の先駆者ルソーやシャトーブリアンがオシアンを讃え、また、ナポレオンも熱心な愛読者で、片時も詩集をはなさず、仏語訳をエジプト遠征のさいに携えていた。
 
 由良君美(1929〜1990)は、『オシアンの歌がなかったなら、エジプト遠征も実現されなかったかもしれず、したがってロゼッタ石も発見されず、エジプト文字解読もずっと遅れをとることになっていたかもしれない。モスクワ遠征にしくじったのは、オシアンに次ぐ感激を与える詩集をナポレオンは持つことができなかったからかもしれない。』とさえ記している。
【由良君美「椿説泰西浪漫派文学談義」】
 
 ドイツではシラー、ゲーテなどがオシアンに傾倒し、なかでもゲーテの「若きウェルテルの悩み」にみられる自己憐憫と感傷はオシアンの感化というほかない。ロッテとの破局を招く原因となった愛の昂奮。その一節は「オシアンの歌」の引用である。ウェルテルとオシアンはいわば不即不離の関係にあり、ゲーテは夢想と耽溺に身を任せたと思われる。オシアン人気は全ヨーロッパに波及し、フランス語やドイツ語のみならず主要各国語に翻訳される。スペイン語、ロシア語、オランダ語、デンマーク語、スウェーデン語、チェコ語、ポーランド語など。
 
 18世紀後半から19世紀にかけてヨーロッパを席巻したオシアンを語らずして当時の文学史を語ることはできない。英国留学した夏目漱石もオシアンの存在を知り、その一節を日本語に訳している。文学だけでなく音楽、絵画にも影響を及ぼし、英国においてピクチャレスク(Pictureque=荒涼たる自然に美的価値を見出し素材とした風景画)という新分野が誕生する。
オシアンを称賛したのは上記の人々のほかにも数多くいて、いちいち列挙するのは紙面を人名でうめるようで能がないが、米国ではトーマス・ジェファーソンがオシアンを読んでゲール語の学習を決意し、エディンバラの商人にゲール語の辞書と図書目録を郵送してもらいたいとの手紙(1773年2月25日付)を出している。
 
 「オシアンの歌」の由来をひもとくと、3世紀頃のスコットランド高地地方‥モールヴェンあたり‥にフィン王、あるいはフィンガル王と呼ばれた一族があった。高地地方(ハイランド)の覇権争い、国外の救援など、フィン王の戦いはいつ果てるともなくつづき、そのため一族の勇者は次々と屍と化し、最後に残った王子オシアンが高齢で失明したあと、その息子オスカルの許嫁で竪琴の名手マルヴィーナに一族の英傑の武勇伝を聞かせ、彼女がそれを語り継いだものとされている。
21世紀のいまなお荒涼としたハイランドで繰り広げられたフィン王一族の物語は、勇者の猛々しくも優しい人間像や、白い肌の美しい娘たち(『姿は綿萱よりもなお白く 嵐の雲よりなお黒い黒髪におおわれた麗しい顔は 夕立のあとの空の虹のよう』)と相まって長く高地人(ハイランダー)の心をとらえつづけたもののようである。
 
 「オシアンの歌」に語られた詩編がほかの戦記物と比較して一線を劃すのは、単に戦いの事実や周辺を語るのではなく、戦闘に参加した者たちの心の在りよう、内面の真実、自己省察を語ったという点にある。過ぎ去ればこの世のことはすべて山間を曲がりくねって吹く風のように、低くたれこめる靄の彼方の弱い光のように遠ざかってみえる。私たちは束の間それに近づき、自らの心の風景をながめるのだ。英雄を生み出すはげしい戦いも、事実だけを集約すれば一片の詩にも劣る、と実践に加わった勇者は思ったろう。それゆえ彼らは自らの心に映った内面的真実を詩情豊かに語ろうとしたのである。
 
 すべては夢のごとく過ぎ去り、頭上にひとくれの土がばらまかれるのである。後世に語り伝えられるのは勇気と高貴なおこない、愛であってみれば、混沌とした時代を駆けぬけてきた者にとって、詩や歌にあらわすことが生きる支えになったと考えて何の不思議があろう。
 
 オスカー・ワイルドの母レディ・ジェーンは「オシアンの歌」を読み、息子の誕生を友人に知らせる手紙のなかで興奮気味に次のように記している。「彼の名はオスカー・フィンガル・ワイルドよ。偉大で神秘的でオシアン的でしょ」(オスカー・ワイルドの洗礼のときのフルネイムはオスカー・フィンガル・オフラハティ・ウィルズ・ワイルドである)。
メンデルスゾーン作曲の「フィンガルの洞窟」は世に知られており、スコットランド西方の海にうかぶスタッファ島にその名を冠せられた洞窟がある。英国での「オシアンの歌」の売上げがいかほどのものであったか。19世紀初頭、『エディンバラの出版業者G・チャーマーズは、「聖書とシェイクスピアを除けば、オシアンほど売れている本はない」と述べている。』【高橋哲雄「スコットランド 歴史を歩く」】ヨーロッパの著名人を一時期席捲したほどの書であるが、こんにち「オシアンの歌」を知る者はすくない。
 
                 
 民話のすべてが伝承されるのではない。民話が神話力をもつから、語りべは精魂込めて後世に伝えようとするのである。神話の世界では、ときに英雄の残虐さが許容されることもあるが、オシアンの歌に登場する英雄は敵に対して寛大で、それがゆえか登場人物の名を子供につけた親は多く、ナポレオンはスウェーデンのオスカル1世の名付け親となった。
 
 『勇猛の光、フィンガルの子よ、わが槍を振りあげて戦え、山の急流のトゥイーへ行け、コルマルを助け出せ、日射しが谷間に射し入るように勇名をとどろかせ、自分が心ひそかにわが子をモールヴェンの新しい光と仰げるように。オシアンよ、闘うときは大風のように闘え、敵が誇りをすてたときは、穏やかにせよ。わが名声もそのようにしてきよらかに耀いた。』
【「オシアン」中村徳三郎訳】
 
 肉親や友、恋人をおもう気持ちはほかのものでは代えがたく、その人を失ってはじめて愛の深さがわかる。「オシアン」が卓越しているのは、人間の普遍的心情を語るとともに、寂寞とした荒れ野に存在する人間のあたたかさ、やさしさを高らかに歌い、さらに、はげしい闘いを語ったあとに現実の価値と意義への省察が述べられている点にある。多くの読者の急所に届いたゆえんである。
オシアンの名声がヨーロッパ全土で日増しに高まってゆくなか、思いもかけないことが起こった。真贋論争である。18世紀後半のイングランド文壇に影響力を持っていたサミュエル・ジョンソン(1709〜1784)は、『オシアンの古歌はアイルランドには伝わっているが、スコットランドにはない。マクファースンのものはアイルランドの古歌の盗用である』と主張、オシアンはマクファースンの贋作と断定した。
 
 ジョンソンは、マクファースンがオシアンの古歌収集のため赴いたヘブリディーズ諸島を訪れた(S・ジョンソン「スコットランド 西方諸島の旅」)。諸島にはオシアンの存在を支持する人々が多くいたが、問題の核心はマクファースン翻訳によるゲール語資料が本物かどうかであり、ジョンソンは、『編者または著者はその原本を提示しなかったし、他の誰によっても提示されていない』と否定していた。
さらにジョンソンは偏執的ともみられる侮蔑を込めて次のように述べている。
『ゲール語は話されるだけで書かれたことのない言語である。三世紀はおろか、一世紀前のゲール語の古原稿も存在しない。』
『この民族は無知蒙昧で、吟唱詩人も読み書きはできない。』
『三世紀ころのケルト民族には書物などなかったし、数も六までは数えられなかった。』
 
 激怒したマクファースンが決闘を申し込むと、ジョンソンは『無礼で脅迫めいた手紙が送られてきたので、これからは黙殺する』といった内容の手紙を書いたといい、また、マクファースンの襲撃にそなえて太めのステッキを離さなかったともいう。
古代〜中世の高地地方の人々はジョンソンのいうように無知蒙昧であったのだろうか。そのあたりに関して「オシアン」の訳者・中村徳三郎はこう記している。
 
 『ジョンソンはゲール語は分からず(中略)、伝承文学を語り聞かされても分かるはずはなく、ゲール文学のことを知らない人々に会って帰ったのですから、高地地方に文学なしという結論に達したのは理の当然でしょう。』 そしてこう続ける。
 
 『高地地方は野蛮未開どころか、563年に聖コロンバ(521〜597)がヘブリディーズ諸島のアイオーナ島に修道院を建て、筆写本をつくることを奨励し、弟子たちを布教に派遣し、この島が北欧文化の中心地になっていました。ゲール語は筆写されないどころか、6世紀から書かれ、9世紀の筆写本「ジュールの書」(ケンブリッジ大学図書館蔵)が残っています。』
さらにこう記している。
『現存するもっとも古い書物は、7世紀にアイオーナ島の第九代修道院長アダムナンがラテン語で書いた「聖コロンバ伝」(スイス・シャフハウゼン公共図書館蔵)で、これにゲール語の書き込みがあります。』
 
 真贋論争の発端となったのは、「オシアン」が全欧で高い人気と名声を得たことによると思われる。ジェイムズ・マクファースンは無名の若い教師であった。いつの世もきっかけはやっかみや嫉妬などが原因で、批判と攻撃の尻馬に乗る者はどこにもいる。最初は些細なことでも次第に引っ込みがつかなくなり、予想だにしなかった大問題に発展するさまは、多くの論争の顛末をみれば明らかである。
 
                          (未完)
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