2007-10-13 Sat      夜の深淵
 
 霽明たる夜は森羅万象すべてくっきりと目に映り、新月の夜は漆黒の闇につつまれる。夜明けを生むのは母なる夜だ。朝は闇に浄められて誕生する。都会には夜という名はあるけれど、それは昼と区別される名称にすぎず、精霊や魑魅(すだま)が活きる、静謐としじま(深淵)を刻む夜ではない。
 
 夜にほんとうの闇が存在しなければ、夜の神秘的な力はおとろえ、私たちは夜明けに生まれ変わることさえできないのだ。夜の兆しである夕暮れは、聖なる魂と魔とが出逢い、渾然一体となる時間だ。
在るがままのものが別の状態に移る刹那は美しさにみちている。夜の闇が深ければ深いほど朝は美しい。闇の深さに生命力が宿っているからだ。そしてそれはほかでもない、古の日本では地下に根の国があると考えられ、根の国は夜を司るといわれてきたことによる。
 
 夜がなければ動植物の成長はない。昆虫には昼はどうでもよく、夜の長さこそ重要で、昼は夜を区切るためにあるのだ。植物にとっても、花を咲かせるかどうかは発育中の夜の長さによって決まる。
 
 都会には真の闇がない。秋から冬にいたる夜、それはなんという神秘的なひとときであったろう。都会から土が消えたいま、霜の降り立つ場所がなくなった。学校に向かう小道に明るい陽が射し、ゆらゆら湯気が立ちのぼるようすもみられなくなった。
 
精霊だけがひそかに活動をはじめる夜の深淵。夜更けに降る雪は静寂を運んでくる。夜の静謐を乱すもの、それは山から下りてくる木枯らしである、文明の利器が吐く騒音であってはならない。
深夜、自然のいたずらの気配にふと目をさまし、耳をすます。神の無言のなかに深々とつつまれるよろこび。もういちど眠りにつくのが惜しいような気がしてしばらく起きているのだが、いつの間にか眠りにおちてゆく。
 
 流れ星をみた。美しさと儚さに胸が熱くなってワインを飲んだ。水晶のカットグラスの、螺旋状に下から上へ切れ込んでゆく模様が、頂でめらめら燃える炎となり、琥珀色のワインが赤に変わったようにみえた。そしてそのとき、J・グルニエの「孤島」の一節を思い出した。
 
 『空白の魔力にさそわれて旅に出る、ある物から他の物へ、いわば片足とびにとび移るということは、不思議ではない。恐怖心と、魔力にひかれる気持とは、たがいにまじりあう、人はのりだすと同時に身をひっこめる。その場にいつまでもとどまることは不可能だ。けれども、この無窮動がいつかは報われる日がやってくる。』
 
 
 夜空に瞬く星をながめていると、神的な瞬間は人間に霊知が宿ることによって感得できるが、霊知は人間の努力によって得られるようなものではなく、神より放たれ、人間に訪れ、ふたたび神に還ってゆくということを理解できるのである。
人間はひどくとらえようのない存在である。いかようにも変わり、しかも、いかようにも変わることがない。度しがたく、あさましく、しかしそれゆえに愛おしい。
 
 うつろいやすい人間の営みからこの世の在りようを知ろうとせず、普遍の天の営み、星座の運行から知ろうとしたのは天文学者だけではない。敬虔な信仰者も万物普遍の法則から学ぼうとした。
夜っぴて祈るのは、自然の力とひとつに溶けあうという意思のあらわれなのだろうか。祈りという言葉がもつ不思議な魔力。祈ることで人は守られているのかもしれない、新月の夜、星明かりが道を照らすように。
 
 
       どこからか 啼く夜の鷹 いかにして ひとのはかなさ 知りたるや
 
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