2008-01-24 Thu      夕映えのフィレンツェ
 
 茜色に染まる夕暮れのフィレンツェをみたのはいつであったか。記憶が影絵になるほど遠い昔のことのような気がする。脳裡に刷り込まれた記憶といえどもすりかわることはある。だが、影絵はいつまでたっても影絵である。
夕映えは、朝焼けのように山頂付近でみれば美しいというものではなく、どこでみても美しい。それはあたかも、人が現在のことについて語るより過去について語るほうが美しく感じられるがごとく。いや、そうではあるまい、現在や未来は朝焼けであり、過去は夕映えであり、両者にはそれぞれの美しさが存在するのだろう。
 
 二十〜三十代なら未来を語ることのほうが過去を語ることより美しいとみえるのかもしれないし、その年代にあっては質量という点において、それまで溜まった過去よりこれから託される未来のほうが多いけれど、ごくふつうに考えると、還暦を目前にした者と較べれば語るべき過去のなんと乏しいことか。
未来を語り合う人はいる。現在を語り合う人もいる。だが、過去を語り合う人は君しかいない。そういうこともそれなりの年をへていえることであり、二十〜三十代なら、未来を語り合う人は君しかいないといっていただろう。口説き、あるいは求婚の決まり文句として。
 
 
 未来を安楽と思えないから過去をふりかえるのではなく、未来には望むべくもない甘美と後悔が昔日に存在し、心を乱すがゆえに私たちは過去をふりかえってしまうのだ。いや、ふりかえるという言い方は正確さを欠くだろう、ふりかえりたくもないのにそうなってしまうのである。
 
 人を愛するようになるのは異性、同性の別なく、かれらの美点と欠点を知った上でのことであるだろう。美点が欠点に勝るとか、美点の数が欠点の数より多いか少ないかというようなことはどうでもよく、愚かなことに、美点と欠点を同時に愛してしまう。
美点が善で欠点が悪なのではない、砂糖ではなく塩を足すほうが甘みのでる料理もある、両者は愛という容器のなかで渾然一体となる。欠点のない者をどうして愛せよう。欠点と向き合うのも愛であってみれば。
 
 表題の「夕映えのフィレンツェ」を作曲したのは服部克久であると記憶している。
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