2008-03-07 Fri      香港(1)
 
 最後に香港へ行ったのはたしか1995年3月だった。
帰国して関西空港から難波まで移動し、駅のキオスクで夕刊を買おうとしたら、新聞と名のつく新聞はすべて売り切れていた。なにかヘンだなとおもいながら地下鉄に乗ったら、まわりの人ほとんどが一様に新聞を広げていて、大きな囲み見出しと写真が目に飛び込んできた。「地下鉄サリン事件」の勃発した3月20日のことである。
 
 地下鉄サリン事件への言及は避けたい。麻原と称する忌まわしい男が一時テレビ出演し、盛んに「たとえば」という言葉を繰り返していた。私はいまも「たとえば」を頻繁につかう人間が嫌いである。
 
 香港での思い出はつきない。1981年から1995年の14年間に70回は行ったろうか。
しかし、マカオはむろん、タイガーバームガーデンほかの観光地へは一度も行く機会がなかった。行ったのは、観光客も訪れない(地元の小学生が遠足で行く)トップ・オブ・ザ・ピークくらいで、レパルス・ベイへは顧客接待がなければ行ってなかったろう。
前者は1955年公開の「慕情」(J・ジョーンズ&W・ホールデン)の舞台ともなった見晴らし絶景の地。
 
 観光目的ではなく、接待する側として広東料理店、四川料理店などの酒家で会食を重ね、買い物ではなく友人に会うためにブランドショップに繰り返し赴いたのである。
バリー、ダンヒル、エルメスなどは初回は客として行ったが、二回目からはなぜか客扱いしてくれず、なじみ客というよりよもやま話の相手のような役割を担わされた。
 
 つまるところ彼らの打ち明け話を聞かされたのである。彼らにとって私は好都合であったのだろう。女房や夫ほか波及すると不都合な人間に洩れるおそれはなく、聞き手として真摯に対応しているふうにもみられたのだと思う。
そういう関係は、彼らの一部がダンヒルからウェッジウッドに、あるいはバリーからテストーニに、エルメスからトラサルディに転職した後もつづいた。思えば根気よく聞いてあげたものだ。
 
 そういう人々のなかで、昵懇の間柄となった人がいた。バリー「ペニンシュラ・ホテル」店のスーパーバイザーS、松坂屋の仕入担当部長Hさん、パークレーンホテルのレセプション主任Aさんの三人である。(Sは香港チャイニーズ、H&Aさんは同胞)
接待目的で行ったときは、三人の休憩時間にコーヒーブレイクをともにする時間しか持てなかったが、プライベートで行ったおりには昼食や夕食をともにした。とくにSとは家族ぐるみのおつきあいをさせてもらった。美しい奥方ブレンダ、かわいい男の子。こうして書いていても屈託のない顔が浮かんでくる。
 
 Hさんは1992年であったと記憶しているが、松坂屋・名古屋本店に異動し、Sは中国返還の前年(1996)カルガリーに移住した。Hさんは帰国する直前、香港松坂屋2Fの高級ブランド売り場で(Hさんは時たま現場に顔を出していた)いきなり嗚咽した。「○上さんは薄々気づいていたろうけど、深い馴染みの女性と別れなければならなくなりました」。そういうのが精一杯という感じだった。
単身赴任10年、香港松坂屋の光と影を見、家族同様に寄り添った人との耐えがたい別れ。Hさんが長きにわたって香港に滞在していた理由をそのとき初めて知った。
 
 いつかかならずやってくる別れとはいえ、本社命令には逆らえず、かといって裡に秘めた積年のおもいにも克てず、つらい別離と裏腹の安堵感さえなく、Hさんはひどく狼狽していた。そして、私の到着を待ちきれないかのように未練が堰を切って噴出したのである。「こないだトスカーナまで買い付けにいってきましてね」と話していたHさんの明るい笑顔は消えていた。
 
 私が驚いたのは、香港でHさんを支えていたものが仕事ではなく女性であったことだ。買い付けで毎年ヨーロッパに行っていたHさんはまさしく仕事人間にみえた。
長い寄港とはいえ、既婚者にとって香港はいわば船着き場であり、深みにはまった恋もいつかは雲散霧消する。溺れても遊びという感覚がアタマのすみにあったはずだ。
Hさんの涙はしかし、そういう見方を根底からくつがえすに十分なものだった。
 
                          (未完)
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