2008-03-25 Tue      香港(2)
 
 香港で懇意を得た同胞のなかでもっとも親しいお付き合いをしたのは日航ホテルズからパークレーンホテル(旧プラザホテル)へ出向していたAさんだった。Aさんは私とちがって人見知りする性格であったのか、すぐ打ち解けることはなく、言葉を交わすまで1年はかかったろうか。
いつもはレセプション・デスクでリクエストを受けるだけで、「承知いたしました」しか言葉を発さなかったAさんが、「リムジンを一度に、それも数回にわたって7台もチャーターしたのはプラザはじまって以来のことです」とかなんとか言ったのがきっかけであったのかもしれない。
 
 香港行きは小グループの場合8〜10名だったが、ときおり24名になることもあった。啓徳空港は九竜半島側にあり、香港島の旧プラザホテルへは海底トンネルを通らねばならない。タクシー利用だとトンネル通行料往復分を支払わねばならず、そしてまた、トンネル出入り口の渋滞はかなりのものであり、特に出口の渋滞はひどかった。
 
 渋滞に巻き込まれればメーターはドンドン上がってゆく。その点、ホテルのリムジンはすべて料金に含まれているし、乗り場に並んで順番を待つ必要もない、ドライバーが私たちを待っている。それに当時のリムジンは低料金、道路状況によってはタクシーより安かった。
空港の送迎だけでなく、レパルス・ベイ〜トップ・オブ・ザ・ピーク〜ランドマーク・ビルへと移動するさいもリムジンを使った。4時間のチャーターで事足りた。
 
 Aさんにしてみれば、24名ならメルセデスを7台使うよりマイクロバス2台のほうが安上がりと言いたかったのだろう。が、三日の短い滞在が志向したのは優雅とゴージャスである。つまり私は、顧客と家族に少額で叶えられる夢を売っていたのだ。それはAさん帰国後の定宿となったペニンシュラやリージェントでも変わらなかった。変わったのはメルセデスがロールスロイス、あるいはディムラーに変わっただけである。
Aさんと会話するうちに出身地が同じで、おたがい学生時代を東京ですごしていた。しかしながら、Aさんと気があったのは私たちが香港に魅了されていたことであった。とりわけ広東料理やベトナム料理などの食べものに。
 
 Aさんの好意で親会社「日本航空」所有のクルーザーを借り、コーズウェイ・ベイを発ち近隣をクルーズし、レイユウモン(鯉魚門)で降りて海鮮料理(食材は私たちが選ぶ)を食し、再びコーズウェイ・ベイにもどるという短い航海をしたことがある。母や私の妹弟と各々の配偶者も一緒だった。20人以上で行ったときは、旧プラザホテルの26階(と記憶している)のVIP専用「ヴィクトリア・ルーム」を借りきって晩餐会(上の画像)を催したこともあった。予約したのはむろんAさんで、私たちのグループに同席し、宴たけなわ、カラオケで数曲披露してくれたような記憶も残っている。
 
 Aさんが香港を離れ、東京本社勤務になってからも会い続けた。提携ホテルの一つ「新高輪プリンスホテル」に格安料金で泊まったことも何度かある。当時、私は仕事の関係で上京する機会も多く、品川は何かにつけて足の便がよかったが、Aさんと待ち合わせするのはほとんど日比谷で、会食も帝国ホテル「なだ万」を利用した。大阪の「なだ万・ロイヤルホテル店」時代から顔見知りの支配人Tさんが帝国ホテル店に異動していたから都合もよかった。
Aさんと会う楽しみは小さからず、そのまま続くことを願った。ある日、Aさんがさみしそうにこう言うまでは。
「マニラへ出向することになりました。」
 
 あれからどのくらい時間がたったろう。Aさんの離日からほどなく私の身辺にも大きな変化があり、マニラでの再会を果たせなかった。Aさんとは現在も音信不通のままである。
 
    ※2010年11月現在 A(明石栄次)さんは「ホテルJALシティ長崎」総支配人として多忙な日々を送っている※
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