2009-11-01 Sun      英国の風景(1)
 
 「人生で最も幸せなことは、幸せな子供時代を過ごすことである」と記したのはA・クリスティーだったろうか、ともかく、ことばの意味を実感するのは還暦を過ぎてからである。
 
 旅の風景は身近なものとなって身体のどこかに入り込み、町を歩いていると不意に幻影となってあらわれる。初めてなのに前に来たような町と、前に来たことがあるのに初めてのような町はコインの裏表だ。過去が未来を暗示し、未来が過去を追慕するように。
聖人に過去あり罪人に未来ありといったのはだれであったか。しびれるような、あるいは、じっとしていられないような響きにみちた町は、もう一度抱きよせたくなる柔肌の女さながらに一体となって溶けこみ、再訪を促す。
 
 離れた別の土地に一つの魂。逢い引きを成就したいという希望のかけらはすなわち魂のかけらである。そうでなければ渇望もありえないだろう。渇望は未熟さゆえではなく成熟ゆえである。成熟した者がいくぶんかの自制心の下に達成可能な何かに魅了され欲する。渇望とはそういうものである。
 
生涯に私たちはどのくらい傷を負うのだろう。傷はあとになればなるほど砂塵のうねりのごとく心をさいなむ。寒風にさらされ冷えきった心をそっと包みこみ、ゆっくり温めほぐしてゆくのが英国の風景であり、みれば必ずなにがしかの感懐をもたらすのである。
 
                          (未完)

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