2003-01-19 Sun      旅に想う(2)
 
 時間は観念的である。つらい時、かなしい時、時間は長いと感じ、たのしい時、夢中になっている時、時間は短い。極楽は日が短いのだ。時間の認識がなければ時間は無限にある。最近になって私は、知性とは時間への省察ではないかとさえ思うのだ。
 
 時間に対する認識が稀薄で、無為にも何か意味があると思うのは若さの特権ともいうべきもので、ある年齢に達すると、無為と喪失の膨大さに呆れはて、記憶の引き出しを封印したくなる。だが、そんなことをすると、ただでさえ記憶の回路がしどろもどろになっている上に、さらに記憶の総量を減らすようなものなので、憶えてはいるが忘れたふりをする。そしてそのうちほんとうに忘れてしまうのである。
知性によって限りある時間を仕切る、旅を組み立てるために知性を活用する、それを常道とすれば、逆説的にきこえるかもしれないが、旅を総合的に構築することによって知性も構築されるのではないだろうか。旅は知性の栄養剤、あるいはカンフル剤であり、その逆もまた真なり。
 
 
 荒涼たるムーアにはさまざまな人間の心模様が横たわっている。欲望と渇望の母は、心のなかに根付いた寂寥感や飢餓感である。ムーアは悲劇を体験した者の心の風景であり、同時に癒しの場である。
「リア王」第三幕・第一場〜第四場はイングランドのヒースの生い茂る荒野。末娘コーディリアの真実の心を信じることができず、不実な長女と次女の見せかけの巧言に惑わされ、そのあげくに裏切られたリア王がさまようのはムーアである。
 
 リア王は、自らが置かれた状況をムーアで把握し、それゆえに気がふれる。だが同時に他人の苦しみを理解するに至るのである。
「窮乏とは不思議な錬金の魔法、卑しいものを尊いものに変えてくれる。」
「お前には、この荒れ狂う嵐にずぶ濡れになるのがよほど大事と思えるようだな。お前にとってはそうかもしれぬ。しかし、もっと大きな病が心に根付いていれば、小さな病はさして苦にならぬ。熊に出会えば逃げるだろう。だが逃げる行く手が猛る荒海ならば、お前は牙を剥き出す熊に立ち向かっていくだろう。
心に苦がなければ、体は苦痛に敏感だ。わしの心のこの嵐は五感を鈍らせ、何も感じさせない、ここに(頭に触れる)脈打ち、荒れ狂っているもののほかには‥。」
 
 ないものがないと思われる都会に無いものがムーアにある。それこそが人間の原風景ともいうべき心の風景なのだ。都会の生活では得られないであろう剥き身の自分と対峙し、都会の閉塞から脱却する。
いや、そうではあるまい、単に閉塞感から脱却するだけでは旅は不完全燃焼のまま終焉を迎えるにちがいない。充分に燃え尽きるには、閉塞感から抜け出すだけでなく、ムーアで思索し、自己と風景の一致を見いださねばなるまい。旅とは自己実現にほかならず、心の風景に辿りつくための思索の旅なのである。
 
 だが、寂寞としたムーアで出会った風景は失われやすい。私たちは懊悩するのにそれほど慣れていないのだ。たとえ一時の思索によって、あるいは、自己と風景の一致によって心の風景がみえたとしても、厳しい冬が春の香りを奪うだろう。
あとに残るのは冬枯れの景色だけである。だからそうなる前に、春がかぐわしい匂いを放っている間に、旅を、自己実現をガラス瓶に詰め込むのだ、再び同じ経験はできないから。
いつの日かガラス瓶はひび割れ、かなしみとよろこびの狭間で心は引き裂かれ、思索する力の失われる日がやって来るのだ。
 
                          (未完)
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