2010-05-21 Fri      コンサート
 
 指揮者や音楽家を主役に据えた外国映画が近年減少の一途をたどっている。英国、フランス、ドイツほか欧羅巴の国々で細々とつくられてはいても、それらすべてが本邦で公開されるわけのものではない。クラシック音楽の解釈に秀でた指揮者、魂をゆさぶる演奏家によるコンサートは値千金、その日一日充足感にみたされる。
 
 2週間前、不遇の指揮者と昔の仲間の再起をえがいた「コンサート」という映画をみた。何度か予告編をみて、本篇も必見だと思っていた。めぐまれないヴァイオリン弾きを主人公にした「無伴奏シャコンヌ」以来の出色のできであった。チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲が心に響いた。
 
 もっと旅をしたいと思うことがある。野山を思う存分闊歩したいと思うことがある。もっと音楽にひたっていたい、すぐれた映像や演劇に没頭したいと思うことがある。これで十分と思ったが、まだ十分とはいい切れないという思いが頭をもたげてくる。
この世は落胆と希望の連続であり、そのつど心を閉じたり開いたりを繰り返し、自主公演は何度となく再演される。人生はドラマのようにはいかない。相反するものがもつれ合うのが人生だ。ドラマのよさが本当にわかるのは、ドラマにえがかれた内容と同程度の体験を経てきた人々である。
 
 映画「コンサート」では主役の伴侶が啖呵を切るシーンと、大詰に登場するチェロケースが記憶に残った。そこに私たちが見いだすのは復活と愛であるだろう。指揮者の四十年ぶりの再起に喝采を送りたくなるのはなぜか。
音符の一つ一つがハーモニーをもとめている。もとめても容易に得られるものでないだけに音符は五線譜をかけめぐる。束の間の感動を胸にし、最後に行き着くところが調和ではなく混沌という名の町であったとしても、そしてそこでコンサートは終わったとしても、私たちの終演は遠い。
 
 では、いつ、どこで終止符が打たれるのだろう。もう限界だと感じたときがそのときなのか。さよならを告げる理由には個体差がある。限界だと思えたとき私たちはさよならというほかないのかもしれない。コンサートは終わった、そろそろ店じまいだと。
 
 指揮者はいつのまにか姿を消してしまった。では、いつものように二人きりのソナタを演奏してみようか、相棒。
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