2010-07-22 Thu      ザ・ロード
 
 極端な心神喪失、あるいは失調症にかかっていてもほとんどの人々の望まないのが極限状態の世界であるだろうし、ふつうの暮らしをしている人々は平素想像もしなければ、語ることさえ憚られるだろう。そういう世界を扱っているせいか、演技派がそろったわりに館内はガラ空き、しかも内容が内容だけに観客は固唾を飲むというか、みな一様に黙りこくって静かなことこの上なしの外国映画「The Road」だった。
 
 極限状態につきものの酸鼻をきわめた場面もないわけではないが、映画は主として現在の親子、過去の夫婦のせりふのやりとりと心の動き、変化を描写し、特に夫婦の信頼関係が妻の混沌で崩れていくようすを克明とまではいかなくても丁寧に表現している。
生きることにおいて最も重要なのは信頼関係である。懐疑は絶対的ともいえる信頼に裏打ちされているといったのはだれであったか、そういう勿体ぶった言い回しをしなくても、疑念がつきまとうのは信頼すべてが消滅したのではなく、信じうる何かのまわりを疑念という亡霊が徘徊し、他者を照らす灯をみえなくさせているからだ。
 
 「ザ・ロード」の極限状態はおそらく大規模な天変地異がもたらしたものと思われ、巨大地震、もしくは6550万年前の大隕石地球衝突(厚い雲が地球をおおったため太陽光を妨げられ、寒さに適応しない生物の多くは死滅)を想起させる。そういう状況はどこに住んでいようと可能性0%ではないが、このドラマは究極の何たるやをわれわれにみせているのではない、ふつうの家族とは何かをみせようとしているのだ。
残酷すぎる事態に自分以外の人間を信じられなくなった父は、息子が独りになっても生きていける道を懸命にたたき込もうとする。正邪の見極めは子供にとって難しい、真実の見極めがおとなにとって難しいように。純真の果実は未熟であり、経験は純真を腐敗させる。だがはたして未熟は成熟にくらべて劣っているといえるだろうか。熟しているかそうでないかはそれほど大きな問題ではないだろう。純真を失うか失わないかが問題なのである。
 
 少年がみたと感じたもう一人の少年、聞いたと感じた犬の気配は幻覚なのか。生きる意味と関係があるのだろうか。ともあれ何かの象徴であるだろう。「ザ・ロード」は大地震を経験した人、切羽詰まった夫婦や親子にとってみるべきものが多くあり、家族とは何か、友愛とは何か、信頼とは何かを静かに問いかける。
その人が何を守るかによってほんとうの姿は浮かび、真実もみえてくるだろう。少年の父は私たちだ。こういう生き方しかできなかった、持てる力はすべて尽くした、あとは人知の及ばぬ力に任せるしかない。
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