2003-01-25 Sat      旅に想う(3)
 
 癒しと飢えはなぜか同じ風貌をしている。飢えが癒しをもとめるように癒しは飢えをもとめる。癒しと飢えはたがいに惹きあい、一方に欠けているものを他方でおぎなう。両者は常にもとめ、もとめられる。
旅に出て海を見るのは、波がもどるさまを確かめ、愛を、あるいは仕合わせを確かめたいからである。私が旅の途上で川を見るのは、再びもどらない水の流れの有為転変に思いを馳せ、自己省察に耽るからである。私はなぜこうも変わりばえせず、いまふうの修辞に乏しく、巷間流行している言葉を用いることもせず、一つのことだけ書きつづけようとするのか。古い言葉は新しく装っても時代遅れだ。
 
 しかし、だれがいったか、太陽は日々新しく、日々古い。すでに語ったことをまた語るのもわるいことではあるまい。そしてこれだけは肝に銘じておこう。暗く語るな、暗く語れば、大地の芽吹こうとする蕗のとうでさえ夜が長すぎるとおののき、色あせてしまう。
 
 大地が生んだほんとうの美しさは色あせない。絵具も筆も不要である。最上のものに何を足しても、それ以上のものにはならないだろう。何かを足すのは何かを引くのと同様愚かな所業である。
いったん旅に出たら、素のまま、ありのまま享受する、それで十分である。食欲をさらに募らせるような香辛料の助けを借りなくともよい、旅がすすめば欲望はおのずとおさまるのだ。
 
 手を加えすぎた料理はすぐ飽きる。飽きればのこす。のこされて、ものが腐るときの異臭がただよい、あげくに捨てられる。欲望などたかがしれている。一時の享楽が終われば萎えてゆく。芳醇な匂いを放つ花にも醜い虫はいる。摘み取った花に醜い虫をみて幻滅する。ことはその繰り返しである。
 
 みせかけと実質が仲良く同居している間はよいが、かれらは癒しと飢えほどに仲がよくない。みせかけは往々にして実質の頑なさを揶揄し、実質はみせかけの脆さに文句をいい、諍いの種は尽きない。互いに欠点をあげつらい打擲しあった後、かれらの蜜月は消滅する。欲望が昂じれば強欲となり、強欲の寄港するのは時として栄華という名の町かもしれないが、それは束の間で、最後は寂寞という町に帰港する。旅は思索をもとめる。思索が旅を思慕し、もとめるのかもしれない。生あるかぎり旅の終わりは始まりである。
 
 ムーアは私に思索をもとめさせた。旅はいったん終わったが、心の風景を探る旅は始まったばかりである。
癒しは旅の目的ではない、結果である。旅の目的は大地の恵みのすべてを享受し、追憶と発見という果実の収穫後、思索の種をまくことである。旅行鞄に禁欲をすべりこませるべきではない。ささやかな欲望をだれが咎めよう。しかし、欲望を抑える旅を繰り返す愚かさを私たちは責められるだろうか。喜びと高揚に満ちた旅だけが旅ではあるまい、不足や自責の念が次の旅を促すこともあるのだ。
 
 砂漠で、カラカラに唇を乾かす南東の風・シロッコに見舞われた人に、水以外の何が役に立とう。欲望を抑えることはそうたやすいことではない。理性は欲望の番人ではない、欲望を盗み見するだけである。欲望が猛り狂うと、理性はたちまち尻尾を巻く。理性は私たちに無数の欠点をみる。だが、欲望は理性の蔑むものを愛してしまうのだ。
 
 欲望もいつかおさまる。どうしてもおさまらないなら、いまある願いよりもっと強い願望を持つことだ。志しの高い願望が欲望を凌いだとき、臆病者の理性が顔を出す。やっと自分の出番がきた、低く小さな声で理性はささやく。理性は知らない、いったん欲望に負けた魂は前より強靱となって、欲望への免疫力の増すことを。
 
                          (未完)
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