2003-09-01 Mon      プアマンズ・ドルドーニュ
 
 私は20年ほど兵庫県宝塚市に住んでいる。住まいのすぐそばを武庫川という幅90メートルくらいの川が流れていて、四季折々、河川敷を散歩する。歩くと四季の移り変わりをひしひしと感じる。
 
 秋になるとマガモが水辺をにぎわす。本邦のマガモは英国のマガモと較べてなぜか警戒心が強い。マガモは1月から2月にかけて、真冬の厳しい寒さに合わせるかのように羽毛の白い部分がいっそう白さを増す。ただ白いのではない、脂肪分たっぷりで、つややかに白いのである。春になると、どこで子づくりをしたのか、ちいさなマガモがウロチョロ歩いている。そして、春が終わるとすがたを消す。
冬が来ると、どこからともなく百羽以上のカモメがあつまってくる。カモメは春までわがもの顔で川面の飛行を繰り返し、初夏になるといずこともなく去ってゆく。初夏は水面に群生する藻が川の汚れを吸い取り、水が澄んで美しい。
 
 アオサギやシラサギは年中いる。ただし梅雨の間はどこかで雨宿りしているのかすがたをみせない。シラサギ類のなかでもオオサギは、幾重にも葉が生い茂った巨木の枝に巣を作る。以前は拙宅の近くにそうした巨木があって、日暮れになるとネグラに帰るオオサギの飛翔の美しさに目を奪われた。それがあろうことか、固定資産税が欲しいばっかりに、市所有の土地をガソリンスタンド業者に売り渡し、そのため巨木は伐採されてしまった。以来、オオサギは宿無しとなり、宿を探して数キロ離れた山へ引っ越した。
 
ある日、川辺に腰かけていた釣り人は、夕映えに照る小判色の川面を見つめ、風向きが変わった瞬間、足下の竿を取り、素早く餌をつけ、勢いよく川に投げた。水面を走る風が魚に合図するのだろうか、あるいは、釣り人が風になるのだろうか、自然と同化した釣り人はおもしろいほど魚を釣った。釣っては放し、放しては釣った。
 
 ずいぶん昔、子供のころ、家の近くに映画館があった。スクリーンの裏の、粗末な板でできた踊り場のうしろは守衛の居宅だった。居宅といっても6畳一間しかなく、トイレも風呂もなかった。そこで守衛と男の子が生活していて、男の子は私より一学年下だった。男の子はボンと呼ばれていた。
ボンはいつでも映画を無料でみれるのに、映画はほとんどみず、春はチョウ、メダカ、夏はトンボ、セミ、フナ、冬は木々や葉裏にひそむ昆虫のサナギをとって遊んでいた。鬼ヤンマは止まっているときにも油断しない。アオスジアゲハ、ルリタテハはモンシロチョウとは較べものにならぬほど敏感で素早い。それらをボンは素手で捕る。
 
 川魚を素手で捕るのはさらに難しい。春先のメダカやオタマジャクシは体力もなく、ひょろひょろ泳ぐから素手でも捕れるが、夏のフナは俊敏で、網を使っても逃げられることがある。ボンが川で魚を捕る光景を何度か見たが、いつみても鮮やか手際だった。
それから何年たったか、中学生になったある秋の日、懐かしくなって川辺に寄った。靴をぬぎ、ズボンの裾をまくり、川に入っていった。川に素足を浸したかったのだ。
ボンは遠くに引っ越していたが、川に入ると、年中黒かったボンの顔、野生のチーターのような細く長い手足を思い出した。
 
 ボンの鋭敏さは天与のものであった。小学校の地区対抗リレー(400メートルを4人の走者)ではアンカーだった。決勝に残った6チームは先頭とアンカーにそれぞれ速いランナーを用意したが、ボンの地区は最終ランナーのボンのところでいつも3人か4人ごぼう抜きして優勝した。とにかくボン速かった。
ボンは川辺や池の端、たんぼの畦道にひとり佇んでいることが多かった。日が暮れるまで川魚や昆虫を観察していた。ボンのすがたは茜色に染まった夕景にくっきりと浮き上がり、日が大きく息を吸って地平線にしずむとき、きれぎれの光のなかに溶けこんでいった。みると、やにわに腰をかがめ、目にもとまらぬ速さで川面を掬(すく)ったボンの手にはピチピチはねる魚があった。小振りの鯉は鈍色にかがやき、口をパクパクさせてもがいていた。それをみて、ボンは慈しむように鯉を両手でしごき、川に投じた。そうしてボンは魚と一体化していたのである。
 
 あれからどのくらい時がたったろう、高校に通うようになった私は、魚捕りも昆虫採集も忘れて、したくもない科目の予習に明け暮れていた。ある秋の日、高校生の分際で高校生の家庭教師(数学と英語)をしていた私は、豊中市桜塚のその子の家からの帰り道、川をみたくなって、駅とは反対側の堤防沿いの道を上がり、川岸に降りていった。
 
 大阪府と兵庫県の境を流れるその川の広い河川敷は人もまばらで、川面をわたるさわやかな風をからだいっぱい受けて、束の間解放感にひたっていた。と、どこからともなく風にのって吹奏楽が流れてきて、せっかくの静寂を乱した。その音は少しずつ近づいてきた。
曲はドビュッシーのピアノ曲「亜麻色の髪の乙女」を行進曲ふうにアレンジしたもので、トランペット、トロンボーンはよかったが、サキソフォンの音はひどく耳ざわりだった。金管楽器の不調和にもかかわらず、小太鼓だけは凛然として精緻、特にソロ部分は端正で躍動感と高揚感に満ちていた。
 
 吹奏楽団は高校生、男女がほぼ同数で、二十人くらいの隊列を組んでいた。彼らの顔をはっきり識別できる距離にきたとき、私は金管楽器に目もくれず、小太鼓奏者を注視した。ボンだった、間違いはなかった。ボンの父親は重い肺炎を患い亡くなっていた。まだ四十代半ばだった。
 
                          (未完)
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