2005-04-24 Sun      旅に想う(5)
 
 いま思えば、はじめての海外旅行には明確な目的があった。それはつまり美術館と遺跡巡りであり、印刷物や映像でしかみたことのなかった絵画、歴史的建造物などを肉視することであった。直にみなければ空想が広がるばかりで現実感がわいてこなかった。
対象を直にみて得心するのは、女体を直にみるのと同様で、対象から得る旅の果実は、気品、流麗、豊満、爛熟、気高さをともなっている。
 
 『春暮れて夏になり、夏果てて秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気をもよほし、夏よりすでに秋はかよひ、秋はすなわち寒くなり‥』(【徒然草】第百五十五段)
 
 『よろずのことはたのむべからず。おろかなる人は、ふかく物をたのむゆえに、うらみいかることあり』(同・二百一段)
 
 旅人のなかには厭世というほどのものではないまでも、隠遁者の風貌をそなえる人がいる。旅人の生活はあたかも自然との融合を志向し、山河に救済をもとめているかのごとくである。荘厳で峻険な山への信仰心が彼らを救済したのであろうか。
隠遁者は一方で感傷的ともみえる感性をもちながら、他方で凛々しさと、鍛えぬかれた意志と縦横無尽の行動力を併せもち、旅の途上で思索し、悔悟の念をあらわにし、自己革新につとめたのではないだろうか。
 
 気高さとはなにか。隠遁者をまねて唯我独尊をきめこんでいる人に私は、一度たりとも気高さを感じたことはない。私にとって気高さとは、傷ついても傷つけない人のことであり、裏切られても裏切らない人のことである。
傷つけられること、裏切られることが試練であるなら、克服できない試練を神仏が与え給うはずはないと考えて、ひたすら試練のときを堪え忍ぶ。克服したときの喜びを味わうために。
 
 だが、克服しても次の試練がやってくる。試練は積み残しのできない荷物である。積み残すと、いつまでもおぼえていて気になってしようがない。忘れ物のように軽く扱えないのも癪の種である。
忘れ物をしてあきらめの気持ちに変わることはあっても、積み残しはあきらめきれない。
 
 試練から逃れるようにして旅に出る、一見そうみえるが実はちがう。逃れるのではなく、いっとき試練を忘れることで試練を克服する心を新たにするのだ。試練から逃れて旅に出ても、試練の記憶が旅の同行者となって、旅をたのしむどころか、行く先々で邪魔するだろう。
 
 いっとき忘れることで、ふだん見ることのない自分のすがたがみえてくる。旅とはそうしたものである。ひねもす日常が浮かぶなら、自分のすがたなど見えるはずがない。旅の果実は追憶と発見である。旅の途上でさまざまな風景、さまざまな人と出会うことによって、私たちは自己を見出すのだ。
 
                          (未完)
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