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玄関口は東向きです。藤野家住宅は、京町家のなかでも杉本家住宅や吉田家住宅のような「商家の造り」(表屋造)をしておらず、
住居として建てられた「大塀造」です。大正15年(1926)建設。
学生時代の同好会で一緒だった後輩のひとりに愛媛県温泉郡川内町(旧住所)で生まれ育った男がいて、その古家は大正15年
に建ったそうです。いまでもその家は存在し、ご母堂が数年前に逝去されて空家になっているらしい。
「大正15年じゃ」、「更地にしたら固定資産税は数十倍になるけん」とおっしゃっておいででしたが、ことし6月下旬、
宇治の三室戸寺を見学後、うちわ片手に盆踊りへ行かれて以来、お会いしておりません。
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玄関上がり口・右側の一室。当主・藤野氏が一日で最も長い時間を過ごしたとされる茶室を兼ねた4畳半。
床の間の背面が東。
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ネズミもかじらないと京都で言われることのある「とが」は「つが」の別名。
関西で「とが」と呼ばれたのは、俗説によると咎人(とがにん)の磔(はりつけ)に
使われた木であるといいますが、真偽は定かでありません。
居間(6畳)の掛け時計。文字盤「6」と時計針の間のアルファベットは「SEIKOSHA」。
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客間(8畳)に部分的西日があたっています。庭のつきあたりは土蔵。
かぎられたスペースをうまく利用し、十分な居住空間を生みだすための工夫が随所にみられます。
昭和20年代半ば〜30年代初めに建てられた注文住宅にも工夫がありました。実家を思い出します。
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床柱と壁面のあいだを仕切る空間は「ちんくぐり」。別名「イヌくぐり」。
天平期、新羅から聖武天皇へ贈られたイヌ「狆」(ちん)ですが、江戸期、ペットのちんを
通すための空間を設けたことに由来するといいます。ほんとうでしょうか。
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客間・床の間の仏壇の扉。扉は引き戸になっており、右方向に移動します。柱のなかをくぐるのです。
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柱を割るように空洞があります。
仏壇の引き戸は柱を通って居間へ移るという按配。
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2階・西向きガラス戸越しの藤野家土蔵。西日がさして撮影状態悪し。
京都新聞2018年11月27日ネット版によると、「京町家保全継承条例における町家は、1950年の建築基準法施行以前
に建築された木造建築物で、柱や梁などの伝統的構造、通り庭や格子といった意匠を有するものとした。
2016年度実態調査で約4万軒あり、年800軒、一日2軒のペースで消失しているとされた。市の審議会は10月、本年度
からの10年間で市内に存在するすべての京町家を対象に可能なかぎり保全継承に結びつけるとの目標を掲げた計画を
市に答申していた。」とあります。
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玄関先の北側のスペースを生かした飛石、つくばい(手水鉢)。茶室を兼ねた4畳半へということで手水鉢。
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見学を終え外へ出ると、見ようによっては何かのかたちにも見える雲が広がっていました。
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梨木神社は京都御苑の東・寺町通に面しています。このあたりには桔梗の廬山寺もあって、花期の平日であれば人もまばら。
萩はお彼岸前後が見頃。萩には一抹の寂寞がただようような気がします。
学生時代の同好会に萩庭という名の同期がいました。いい名前です。萩庭はさみしさなど感じさせる男でなく、
男気のある人物です。登山と京都が好きで、季節の風物詩が催されるころになると時々上洛しているようです。
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さみしさを感じる萩は、群生していると別の表情をみせ、しかしにぎやかというのではなく。
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萩500株といいますが、1000株くらいあるのではないかと思えます。それほど繁茂しても萩の群生は自己主張せず。
梨木神社の静寂は平日。混雑するであろう土日は避けたい。
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萩は目立たず、ひっそり咲き、背景の女性は、若い女性より中年以上のほうが似合います。
生き方が前向きでなくても、後ろ向きでなくても、ひっそり暮らしている人間に萩は溶けこみます。
萩はある意味、陰の立て役者なのかもしれません。
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大坂曾根崎出身の上田秋成が没した羽倉家はこのあたりにあったといいます。梨木神社は明治になって造営されました。
京都へ移ってからの上田秋成は貴族、商人、風流人などさまざまな交流があったそうです。
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気候の関係でしょうか、サルスベリがまだ咲いていました。この時期、ハギのほかにはヒガンバナでしょうに。
時刻は午後5時10分過ぎ。
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サルスベリの花と実が双方入り乱れているのは、あまり見ない光景。
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