ダリウス2世の長子アルタクセルクセス2世(前404〜前358)はアケメネス朝の他の王同様、波乱の生涯を送った。パサルガダエの宮殿での戴冠式の途中、弟キュロスの短剣から逃れた後、母パリュサティスの哀願を聞き入れキュロスを釈放し、キュロスの親衛隊のいるサトラピー(小アジア)への帰還を許す。
キュロスは蜂起するが、バビロン近辺で勝利を手中にする間際殺される。
同時期、ギリシャのアテネ、スパルタなどの都市国家はペルシアの賄賂によって互いに反目し、無益な抗争を繰り返したすえに弱体化する。黄金の魔力に抗いきれなかったギリシャ人に全盛期の面影はなく、凋落の一途をたどった。
アルタクセルクセス2世の外交策が軌道に乗ると思われた矢先、重税に危機感を募らせたペルシア西方諸州のサトラップたちが反乱をおこし、他方、エジプトは独立を宣言する。そのことでペルシア帝国の収入がほぼ半減するのは大きな痛手だった。
エジプトはスパルタ、サトラップと同盟を結び、ペルシアに対して軍事行動をおこすが、内乱の勃発によりエジプトは崩壊寸前にまで追い込まれる。ファラオは同盟軍を離脱し降伏、サトラップのアロアンダスも降伏する。
アルタクセルクセス2世は窮地を免れたが、大帝国ペルシア崩壊の芽は生じていた。マケドニアのアレクサンドロスの登場も間近い。
注:「サトラップ」 ペルシア帝国の官職名。ギリシャ訛音のサトラペス(Satrapesが語源で「王国の守護者」の意。【アジア歴史事典(平凡社)】
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