英国デヴォン州は東にサマセット州とドーセット州、西にコーンウォール州が隣接し、南に英国海峡、北にブリストル海峡があり、観光地の多くは
南部にかたまっているが、北デヴォンの郷愁をかきたてる風景をぬきにしてデヴォンを語ることはできない。ガイドブックに載らず、ツアー客皆無。
夏のみ近郊からの日帰り客で活気づく小さな町と村。
 
昭和30年代半ばまでの古き良き時代を追懐させる風景。イングランドをレンタカーで旅すると、遠く離れた場所からでも寄ってみたくなる土地。
デヴォンは海外沿いでも山間でも、たいていの町はなだらかな丘や低い山が連なっている。
日本にもそういう町は多いけれど、1970年以降に建てられた家屋、ビルが雑居しており、風光明媚とは言いがたい。ドライブの快適さも異なる。
リンマスへ
リンマスへ
 
ドライブする心地よさ。飽きもせずイングランドを旅してきたのはそのためかもしれない。何度も言及してきたことなのに、
2018年夏、英国最後のドライブ旅行となるとわかっていると感慨もひとしお。
 
リンマスへ
リンマスへ
 
このあたりは民家は多いほうだが、英国カントリーサイドは総体的に建物の数はすくない。
都市部でも郊外の閑散たるありさまは60年前(昭和30年代半ば)の日本を思いおこさせる。
 
建物のすくないと爽快で清々しい。陸も空も広く感じる。
 
リンマスへ
リンマスへ
 
 
リンマス
リンマス
 
リンマスへはブリストル空港から約70マイル(112キロ)。空港そばのA38をのんびり南西に向けて車を走らせる。
27マイル進み、ブリッジウォーターからA39を西へ43マイル行けばリンマス。2時間半の行程。夏の午後8時は十分明かるい。
 
関空からKLMを利用しアムステルダム経由ブリストル行きの乗り継ぎは1時間半ほど。ブリストル着は英国時間16時台。
関空出発便の離陸後、14時間少々でブリストルに到着する(アムステルダム〜ブリストルは1時間10分)。
 
リンマス
リンマス
 
リンマスとリントンを併せても人口は1万7千人程度、これといって観光資源もない場所へ夏の日曜に集まってくる人々。
狭い入江に浮かぶ小船や、峻険な崖っぷちに建っている家々を見にくるのだろうか。リンマス川沿いの道は車でいっぱい。
 
 
リンマス
リンマス
 
 
リンマス
リンマス
 
海があって、川があって、小さな港があって。旅情をかきたてる道具立てはさまざまあるけれど、ここで重要なのは「小さな」ということ。
 
リンマス
リンマス
 
北デヴォンの北部のすみっこというような辺鄙なところまで来ると、川の名前なんてどうでもいいでしょうという気分。
ところでこの川、リントン川でしたか。
 
リントン
リントン
 
リントンはリンマスのサウス・クリフ・ヒルという丘の中腹に佇んでいる。このあたりの歴史は鉄器時代から始まるという。
本格的に人が住みついたのは13世紀。建物のほとんどは19世紀半ばのヴィクトリア時代から20世紀初頭のもの。
 
 
 
バレー・オブ・ザ・ロックス
バレー・オブ・ザ・ロックス
 
バレー・オブ・ザ・ロックス(岩の谷)は北デヴォンのどこにでもあるような場所。リントンの西1キロという至近距離なので
軽いウォーキングに向いている。眼下の眺望にめぐまれ、丘に登ると見晴らしはさらによくなる。
岩の谷
岩の谷
 
 
岩の谷
岩の谷
 
 
岩の谷
岩の谷
 
白っぽい岩は北デヴォンで最も古いデヴォン紀のもの。18世紀末、ワーズワースとコールリッジが一緒にここを訪れたという。
 
リントンについては「Coast of Great Britain at Lynton North Devon Jouanal」(2016刊)。
岩の谷
岩の谷
 
芝居の世界で「顔よし、声よし、姿よし」というが、英国は「徒歩よし、鉄道よし、道路よし」だと思う。
車や列車で移動する旅人はいても、歩いて旅をする人は少ない世の中で、英国人はとにかく歩く。
 
鉄道も道路もフットパスも気持ちがいいほど整備されている。世界広しといえども英国だけである。
三拍子そろうというのは簡単なようで簡単ではない。どこの国が、誰がボランティアで保存鉄道など
考え、実践するだろうか。ましてパブリック・フットパスという発想さえも。
 
岩の谷 駐車場
岩の谷 駐車場
 
リントンのホテルに泊まれば車を駐車して、わずかな距離をゆっくり歩いてこられるが、リントン村に公営&私営駐車場は
ほとんど見当たらず、泊まり客以外でバレー・オブ・ザ・ロックへ行く人はここに駐める。
 
リントン
リントン
 
各所のフットパスには掲示板が立ち、道に迷うことはない。
 
リントンの宿
リントンの宿
 
リントンにあるホテルの部屋からの景色。このホテルはシーズンの4月から9月まで営業、それ以外は休業。
このホテル、けっこうな料金ふんだくる。部屋はそのぶんマシかと考えるほかなし。
 
ウッディ・ベイ駅
ウッディ・ベイ駅
 
ウッディ・ベイ駅とキリントン駅を結ぶ鉄道(リントン&バーンスタプル鉄道)は狭軌鉄道(線路幅は約60センチ)として
リントン=バーンスタプル間31キロを運行していた(1898年開通)が、1935年に閉鎖。
 
1979年、わずかな鉄道愛好家が集まって鉄道再開をめざすリントン&バーンスタプル鉄道協会を設立、その後の
紆余曲折をへて2000年、鉄道会社から多くのボランティアが運営する鉄道信託となり、2004年、ウッディ・ベイ駅が
再開、キリントン駅までの1マイル(1.6キロ)を3月〜10月ほぼ毎日運行している。
 
2019年7月現在、ウッディ・ベイ発10:45を始発に45分おきに1本、最終は16:00。キリントン発は11:00から
45分おき、最終は16:15。往復大人7.5ポンド。チケットは終日有効、何度でも乗車できる。
 
ウッディ・ベイ駅
ウッディ・ベイ駅
 
リントンとバーンスタプル間の他区間は鉄道再建のため運休ということです。
 
ウッディ・ベイ駅
ウッディ・ベイ駅
ウッディ・ベイ駅
ウッディ・ベイ駅
 
 
ウッディ・ベイ
ウッディ・ベイ
 
ウッディ・ベイは駅の2キロ北にある。ブリストル海峡と北大西洋が入り混じる遠浅の湾。
 
 
エクスムーア
エクスムーア
 
ムーアとの最初の出会いは1999年6月、ノースヨークシャーだ。ヨークからロビンフッズ・ベイに向かう途中のA169を車で走って
いたら、視野が大きく開けた。ノースヨーク・ムーアズだ。
 
そのときの感動はひとことでいいあらわせるものではない。1971年10月バーミヤンで2体の石仏と出会ったときの感動に匹敵した。
1994〜1998年、心は殺伐としていた。
1996年10月ロカ岬に立ち、陸はここで終わるのだからとふんぎりをつけたつもりだったけれど、帰国して数週間たてば元の木阿弥、
憂鬱を晴らそうと毎週コンサートホールや能楽堂に出かけた。名演に接することで気持ちが鎮まるのではと思ったが甘かった。
 
 気分を明るく爽快にしてくれたのは大晦日に大阪シンフォニー・ホールで催されたジルベスタ・コンサートと、正月初めイズミ・ホールの
ニューイヤーコンサートである。特にジルベスタのメラニー・ホリディのエンターテイメント、リシャール・カルチコフスキーの美声に
やみつきになり毎年出かけた。
 
 
Dunkery hill エクスムーア
Dunkery hill エクスムーア
 
メラニー・ホリディとカルチコフスキーがいなければ憂鬱を抜け出すのに時間がかかっていたかもしれない。
 
しかしそれでも魂の救済には至らなかった。そんなものは一生かかってもやってこないのだろう。
1996年、プラハで出会ったヨークの老夫妻が心に残り、いつかヨークへ行かねばと伴侶と話していた。1999年6月、
ようやく実現した。名前も住所も何も聞かなかったから夫妻には会っていない。
 
私たちが会ったのは途轍もなく広がるムーアだ。上の画像とちがってヘザーの花など一片も咲いていないムーアは
決して私たちをあたたかく迎えてくれたわけではない。寂しさをいっそうつのらせただけである。
 
私たちは呆然とムーアに立ちつづけた。2時間はいたろうか。そして同じことを思った。これが心の風景なのだ。
包みこむというわけでもなく、拒否するのでもなく、私たちと同化するがごとく、しかし茫洋と広がるムーア。
 
荒涼たるムーアに心の深淵をみた。そう思った矢先、ムーアがうめき声をあげた。風が迷いこんだのだ。
ムーアは私たちではないか。もう煩悶することはない、後先のちがいはあっても、いずれ大地にかえるのである。
 
ノースヨーク・ムーアズ
ノースヨーク・ムーアズ
 
1999年6月、ムーアと初めての出会い(ノースヨーク・ムーアズ)。古ぼけたアナログカメラで撮影。1999年、何歳だったか忘れた。
 
エクスムーア
エクスムーア
 
 
 
エクスムーア
エクスムーア
 
入手したドローン撮影の一枚。道路はエクスムーア北側の海岸線に沿ってつづくB3225。
 
 
ビディフォード
ビディフォード
 
 
ビディフォード
ビディフォード
 
ビディフォードは人口約1万7千人の北デヴォンでは比較的大きな町。
 
11世紀、ウィリアム征服王の妻マティルダ(ウィリアム2世とヘンリー1世の母)がザクセン貴族ブリックトリックからビディフォード
を奪ったという。マティルダの死後、ウィリアム2世の子孫が何世紀ものあいだ領地としておさめていた。紆余曲折をへて16世紀
にグレンビル家がビディフォードに港を設立、これが新植民地アメリカとのタバコ輸入貿易港として栄えた。
 
英国内戦(1642−1651)勃発時、グレンビル家は議会派と結び、チャールズ1世の王党派と対立、1643年ビディフォード
の町は王党派軍によって破壊される。1646年にはペストで町民229人が犠牲となった。18世紀になって港はアイルランドから
の羊毛輸入港、あるいはニューファンドランドのタラ取引港として繁栄する。
 
 
ビディフォード
ビディフォード
 
話は飛んで第二次大戦中の1942年、米軍がビディフォード上陸を開始、米軍キャンプがビディフォードに造営され、
映画館など施設も併設される。43年まで米兵の数が多かったため赤十字病院も開設され、2千人以上の英国民が
疎開してきたという。
 
夏場はリンディ島へわたるフェリーも運航されている(イルフラクームからのフェリーとは別便)。
ビディフォードに関しては「BIDEFORD HISTORY TOUR」(2016年刊)、「Bideford Through Time」(2013年刊)。
 
 
ビディフォード
ビディフォード
 
 
ビディフォード 薬局
ビディフォード 薬局
 
いうまでもなく英国はコモン・センスの国。自分勝手な自由より良識、公共性を重んじる。女だから許されるなんて
甘ったれた考えも持たないのが英国。そこがいい。ダメなものはダメと言えないあなた、見習わなきゃね。
 
ビディフォード
ビディフォード
 
 
ビディフォード
ビディフォード
 
昔、ある掲示板に別角度の画像(この画像より古い)をアップしたとき、「Wife’s Hand」というタイトルをつけた。
 
 
インストウ 信号ボックス
インストウ 信号ボックス
 
インストウ駅は1965年に廃止され、信号ボックスが残った。内部はボランティアによって日曜だけ公開されている。
信号ボックスからは歩行者&自転車専用の細い小道があり、小中学生にまじって学生がサイクリングしている。
 
インストウ
インストウ
 
インストウはバーンスタプルとビディフォードの中間に位置する小さな村。「ビッグロード・アトラス」ほかの道路地図を
みても、よほど注意しても見落とす。Indexで「Instow」を探してようやく見つかる。
 
インストウ
インストウ
 
歩行者&自転車専用道。インストウに関してはジェシー・ラッセル&ロナルド・コーン共編「Instow」(2012年刊)。
 
インストウ ビーチ
インストウ ビーチ
 
 
インストウ ビーチ
インストウ ビーチ
砂州が海のうねりを妨げ、波立たない浜辺のインストウ海岸。どうってこともない風景をみて昔をなつかしく思い出す。
 
方々旅をして知っているつもりだった。しかし、ほとんど知らなかったということを知ったのが1999年6月英国の旅だった。
経験すればするほど思い出は深まってゆく。