2020年1月10日午後3時ごろ、京都市山科区山科厨子の将軍塚青龍殿へ行きました。ことし初めての上洛で、清閑寺も見学。
青龍殿の木造大舞台は2014年秋完成後、一般公開されていなかったのを、青蓮院門主の決断で意外と早く公開されました。

福徳門 将軍塚青龍殿入口
福徳門 将軍塚青龍殿入口
福徳門の左側を入って右に行くと15台ほどの個人用駐車場が。バス、タクシーなどは福徳門の150メートル手前、
東山山頂公園の駐車場を利用します。
 
 
青龍殿
青龍殿
青龍の名のいわれは申し上げるまでもなく、平安京の四方を守護する四獣のうち東の青龍。
ほかに白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)。青蓮院は東山区粟田口にあります。青龍殿は東山連峰の一部。
 
以下は青龍殿拝観受付でいただいたパンフレットの「青龍殿の由緒」の要約。
大正天皇即位のさい京都府民から浄財を募り、北野天満宮前に建立された「武徳殿」は1947年、京都府に
移管されたのを機に府警の柔道&剣道道場(平安道場に改称)となった。
 
1998年、府は雨もりの手当てがおくれ、修繕に多額の費用がかかることから平安道場を閉鎖、解体処分を決定。
2009年、青蓮院門跡は名も新たに「青龍殿」として東山山頂・将軍塚への移築再建を決し、2014年10月竣工。
 
 
青龍殿
青龍殿
青龍殿の引き戸を開けると正面奥に青不動の掛け軸。公開されているのは複製で、本物の青不動(国宝)は複製の裏側に
安置されているとお坊さまがおっしゃっておいででした。青不動のサイズは縦約200センチ、横約150センチ。
(青龍殿内部は撮影禁止)
 
青不動は青蓮院でみて以来50年ぶりだと思います。当時みたのが本物か複製か定かではないほど遠い記憶。
 
オリジナルの青不動は青龍殿公開を記念して期間限定でガラス越しに見学できました。青蓮院門主はオリジナル公開したい
という意向を示されているそうですが、文化庁が反対していると若いお坊さんの言。ふだんは複製なのでガラスはなし。
 
1000年前の作品ゆえ劣化が相当なもので、外気にふれると紙のふくらんだり縮んだりも激しく、文化庁が難色を示すとか。
 
 
将軍塚
将軍塚
桓武天皇が長岡京から平安京への遷都場所選びをするとき、和気清麻呂と共に眺望のよいこのあたり(将軍塚)
に上がって都を定めたとか。将軍像に甲冑を着せて地中に埋め、都の安泰を祈願したとも伝えられています。
 
 
青龍殿
青龍殿
大舞台へは青龍殿右横からも行けますが、階段を上がって一気に開ける眺望のほうが感動は大きい。
 
 
階段
階段
階段を上がると大舞台へ。
 
 
大舞台
大舞台
この光景を初めて見たのは2015年1月3日放送の「京都人の密かな愉しみ」第1回。
大学教授エドワード・ヒースロー(団時焉jが完成したての青龍殿大舞台を歩き、京都盆地を一望する。そのシーン1分20秒。
時季は晩秋か初冬。
 
渋い黒のオーバーコート、赤のマフラー。彼の清々しく満ち足りた面持ちに仕事を離れた男を感じて、ヒースロー役は団時烽フ
生涯の当たり役になると思いました。三枚目に近い二枚目半で、コミカルなのに恰好いい。
 
青龍殿大舞台が完成したのは2014年10月上旬、その年は一般公開されておらず、見学するには青蓮院門主の許可が
要るとのことでした。某放送局がいち早く「京都人の密かな愉しみ」のロケ地に選んで撮影しました。
 
大学のツテで古美術商を訪ね、青龍殿大舞台のことを言うと古美術商曰く、「あそこで日の出を‥そらまた雅なことですな」。
ヒースローは、「この場合のみやびは物好きと訳すべきだ」と独白。
古美術商の佐川満男もうまかった。どこかクセがあって、イヤミなところを隠し、隠しきれず露呈する役柄。
 
 
青龍殿 大舞台
青龍殿 大舞台
私たちの完全貸切。一歩、一歩前に進むにつれて広がる視界。
 
「京都人の密かな愉しみ」で見たときは真新しい木でした。5年も経つと、舞台もほどよく風化し、手すりもそれなりに古びて、
まわりの景色になじんでいます。
 
ヒースローは上京区にある庶民の商店街「出町枡形商店街」で買ってきた豆腐を食べる。
包丁を入れて碁盤の目に豆腐を切るとき、平安京とつぶやいたり、サバの半身を魚屋でキズシにしてもらい自宅で食べ、
寒ブリと大根の煮物を自分で料理する。
 
彼の自宅は老舗和菓子店の隣、町家の2階を借りるなど庶民的で、まったく偉ぶったようすがなく、したしみやすい。
 
 
大舞台
大舞台
青蓮院の青不動が青龍殿に移されたことは後になって知りました。
 
この日に行ったのは、観光客の少ない冬の平日であり、午後おそい時間であること、見学者がおおむね行きわたり
減少傾向であること。1月10日、その時間、観光客は少ないと予想していました。しかしゼロとは思いもしなかった。
 
 
大舞台からの景観
大舞台からの景観
まわりのビルの群れに較べると京都御苑(京都御所)がいかに大きいかがわかります。
 
京都御苑手前の左中央付近の建物は京都ホテルオークラ。右に目を移すとリッツカールトンなどのホテル。
京都盆地は広いようで狭い。地理に明るい人なら、あそこがどこかわかる各所。見えない鴨川はどこでしょう。
 
 
大舞台
大舞台
右側にちいさく写っているのは伴侶。清水の舞台の4.6倍の面積(1046u)をもつ大舞台。
 
歌舞伎好きの伴侶がここで八方にらみの見得、飛び六方をしたのは、われわれ以外に人がいなかったからですが、
初めて見ました。サマになっており、驚きました。弁慶は笈(おい=箱形・竹製)を背負っています。伴侶はリュック。
 
 
大舞台
大舞台
40代になって親しい人たちからこういう質問を受けました。「京都で一つだけ観光するとすればどこでしょう?」
そんな難しいこと聞かないでください。こたえられません。70を過ぎたいまなら答えられます。ここです。
 
「京都人の密かな愉しみ」第1回目に登場するのは大舞台、青蓮院、雨宝院、府立植物園、雲龍院、糺の森、鹿王院など。
講釈や蘊蓄を最小限にするところがよく、語るにしても昔から住んでいるさまざまな職業の人に語ってもらう。
 
源孝志の脚本、演出がよく、音楽もすばらしい。ノンフィクションの部分はいまいちだったけれど、ドラマの部分はおもしろい。
 
 
 
大舞台
大舞台
名残を惜しんでいるわけでもないけれど、帰りぎわに後ろを振り返っていました。
 
われわれが大舞台をあとにするやいなや4人連れがどやどやと入ってきて、青龍殿に和服姿の男女3名が入場。
 
「京都人の密かな愉しみ」第1回目、学生役の泉澤裕紀が、下宿先・西賀茂の民家で「ぶぶ漬け」の一件を
確かめるためゼミ友の女性を伴うシーンが出てくる。
 
下宿の女大家のせりふ。「卒業したら出世して、京都にもどって来て、ぎょうさんお金使いなはれ。それが京都への恩返しどす」。
 
青龍殿の外 枯山水への通路
青龍殿の外 枯山水への通路
枯山水
枯山水
うしろの建物は青龍殿です。いまは枯れ木ですが、桜の時季には約200本が咲きます。
 
 
四阿へ
四阿へ
枯山水をぐるりと巡り、順路にしたがって進む。四阿の手前に桜の木。四阿の先に将軍塚。
 
 
 
将軍塚
将軍塚
青龍殿・青不動の前で若いお坊さんと話しているあいだに伴侶は護摩木に願いごとを書いたらしく、
そのお坊さんに、「護摩木を奉納させていただきました」と言いました。
 
お坊さんは、「あしたがことし初めての護摩日です」と。そうか、1月11日は満月。
お坊さんと別れたあと、手伝いに来ていた檀家婦人に「護摩はどこでたくのですか?」とお聞きしたところ
青不動を指さし、「あそこの前です」と言われました。初護摩は午前と午後、2回です。
 
 
青龍殿 西展望台
青龍殿 西展望台
西展望台には女性4人のグループがいました。大舞台は神仏が人払いをしてくださったのだと思うほかありません。
 
 
青龍殿 西展望台
青龍殿 西展望台
下の朱塗り門は平安神宮鳥居。平安神宮の屋根がちらっと見えます。
 
左中央部に糺の森(下鴨神社)、そのすこし上に府立植物園、賀茂川は下鴨神社で高野川と合流して(南西)鴨川と字を変える。
三千院方面へ流れる高野川は建物が邪魔して見えない。賀茂川は上賀茂神社の西から北東の山沿いを流れ、雲ヶ畑へ。
雲ヶ畑・岩屋山志明院は賀茂川の源流。
 
歌舞伎「鳴神不動」では、鳴神上人が滝の流れを止めており、使命を受けた雲絶間姫(くものたえまのひめ)が上人を
酔っ払わせ、彼が泥酔しているあいだに滝の上の注連縄を切り、八大竜王を解き放つ。するとたちまち雨が降り、
眠りからさめた鳴神上人は雷となって姫を追う。鳴神の舞台・志明院は山奥にあって、夏でも涼しいステキなところ。
 
 
青龍殿 西展望台
青龍殿 西展望台
最奥部は大阪南港のビル群。距離感が稀薄になってきます。右中央はJR。写っていませんが右方向は京都駅。
左に鴨川が見えます。
 
 
 
 
清閑寺 高倉天皇&六条天皇御陵
清閑寺 高倉天皇&六条天皇御陵
将軍塚青龍殿からほぼ真南、直線距離で約1.4キロに位置する清閑寺と御陵。
 
石段を上がって右(石段あり)へ進むと清閑寺。清閑寺は小督ゆかりの寺。平家物語に、高倉天皇が寵愛した小督は
清盛に出家させられ、高倉帝と別れさせられたというようなことを述べています。小督は美形で、琴の名手でもあったとか。
 
高倉帝が愛でたのは容姿だけでなく、彼女の琴の音にぞっこんだったのではないでしょうか。
小督が旅立ったら自分の墓のそばに葬るようにと従臣に語ったそうです。小督の墓は清閑寺内にあります。
 
清閑寺山門より清水寺へぬける山道があり、東山のうっそうとした森に囲まれ、昼なお暗い小道。
伴侶が言うには、春になったら歩きに来ると。小生はパスします。
 
この日、清閑寺管理人に直接聞いたのですが、外国人観光客が夕方、午後4時前に清閑寺を見学、
そして清水寺への山道を歩いて迷子になり、捜索隊が出て、帰るに帰れずタイヘンだったとか。
 
それでも観光客は絶えず、春秋はもちろん夏冬も外国人観光客が大勢くるそうです。中国だけでなく
ヨーロッパからも訪れる。こんな辺鄙な場所へ押しよせるほど小督や平家物語が有名? 知らずにくる?
この日も閉門時間(午後4時)を過ぎてチャイニーズが子ども連れで来て、仕方なく入れておいででした。
 
高倉天皇御陵
高倉天皇御陵
右の宮内庁掲示板に、「六条天皇 清閑寺陵」、「高倉天皇後清閑寺陵」と書き記されています。
 
 
清閑寺山門
清閑寺山門
1月10日は4時15分前に門を閉めたそうで、小生は3時50分にきたとき門も門横の勝手口も閉まっていました。
郵便受けの上からなかをのぞくとお堂が見え、2分ほどたって管理人の方がお堂の裏からあらわれた。
 
小生のうらめしそうな、しかし期待をこめた目に気づかれたのでしょうか、勝手口を開けてくださった。5分か、長くても
10分ならとおっしゃって。やさしく親切な方でした。で、3分間の撮影を。
 
 
清閑寺
清閑寺
立て看板
立て看板
見てのとおりです。
 
 
小督の桜
小督の桜
小督の桜の前に与謝野鉄幹の父与謝野礼厳(れいごん 1823−18989の句。
礼厳は幼いころほかの寺の養子となり、後に願成寺(がんじょうじ)住職をつとめた人です。
幕末、尊皇攘夷側に立ち活躍。維新後、子どもの教育が必須であると主唱したとか。
 
 
清閑寺
清閑寺
清水寺へ通じる小道。。
親切な清閑寺管理人さんは、また来てくださいとおっしゃり、また来ますと言ったものの、再訪できるかどうか。
 
 
清閑寺からの眺望
清閑寺からの眺望
森のあいだに京都市内の一部をのぞめます。京都タワーも見えます。