60代半ばまで惜春ということばに自分の年齢を感じることはなかったけれど、散りそめの桜は、
どの花よりもノスタルジックな、あるいは悲劇的な、惜春の象徴でした。
あれはだれだったか、「花に限らず、自然界、人がつくり出した造形物で美しいと感じられるものは
なぜ美しいのか不思議です。小学生のころ、神通川の土手へ花見と写生会を兼ねた遠足に行った
ことがありますが、そのときは桜を美しいと感じることはありませんでした。
しかし年を経るにつれ、桜に対する思いも強くなってくるようです。人の美意識は味覚と同様に
年齢により変化するのでしょうね。」と言ったのは。
美しいと感じられるものはなぜ美しいのか。ほんとうにわからない。
子どものころ惜春という気持ちはなく、美意識も稀薄で、学校が終わったら外で遊んで一日が
暮れていました。
小川を堰き止め、水をさらえるのに手間取り、ぴちぴち跳ねる魚を見るまもなく陽が落ち帰宅。
放課後、小川へ行くと元通りになっており、魚は逃亡してがっかり。
(堰き止め遊びは昔からありました。魚を捕獲したら堰を切り、川の流れを戻します)
時がたち、「暮れなずむ春の日」という文言をみたとき、春の日は決して長くないと思ったものです。
或る日、別れや喪失感ではなく、お腹もすいていないのに、夕暮がひどく寂しかった。
早く朝が来ればいいと思っていた子ども。朝の来ない老人となるのを想像したことはありません。
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