2019年7月2日      忠臣蔵と大富豪同心(一)
 
 忠臣蔵の奥深さがわかるのは人生晩年である。史上有名なのは「松の廊下」と「討入り」。忠臣蔵は昭和30年代何度も映画になり、その後も平成期に入ってもテレビドラマ化され、視聴率も上々だった。それぞれにみどころはあり、出演者もそれなりに奮闘した。史実が歴然と存在し、赤穂四十七士への配慮なのかどうか大胆な演出を避け、無難にまとめたドラマが多かった。
 
 演出や脚本を特別大胆にしなくても、ちょっとした工夫で実在の人間が色あざやかにふちどられ、ドラマの世界に魅せられることもある。2016年9月〜2017年2月に全20話放送された「忠臣蔵の恋」。恋という文字を冠せば薄っぺらな物語と思うのは先入観の強い人だ。恋の文字は視聴者の気をひくためで、女性にみてもらわないと視聴率はアップしない。
 
 ちょっとした工夫ときいたふうなことをいうけれど、ちょっとした工夫をこらすのが難しく、感性と才能がものをいう。原作は諸田玲子(1954−)の「四十八人目の忠臣」。脚本は吉田紀子、塩田千種。演出は伊勢田雅也ほか。カメラワーク、音楽、ナレーター(石澤典夫)も効いている。
 
 忠臣蔵のよさを若いころは理解できなかった。赤穂浅野家の改易、幕府の裁きと老中の思惑、江戸市民の反応、浪士と家族の労苦、そして討入り後の顛末など。そのあたりは理解できた、が、そこまでだった。
加齢とともにドラマの見方が微妙に変化する。吉良家中の煩悶にも気づく。無念は浅野家のみにあらず、赤穂浪士に討たれた吉良家中にも無念は残る。無念のトラウマ化は厄介。つまらないドラマはいつみてもつまらない。ドラマのおもしろさは経験が増すにつれて募る、こともある。
 
 加齢は不思議。地方のちいさな駅のベンチに腰かけ、ホームと線路をわたる初夏の風に昔日を感じ、風をうける自分に名残を告げる。きのうとは違う感覚がからだをかけぬける。何気ないものが愛おしくなるのは老年期の特徴かもしれない。
 
 時代劇ドラマ「忠臣蔵の恋」は前半、僧籍に身を置く父(元赤穂家臣)を持つ「きよ」が、赤穂浪士・磯貝十郎左衛門との交流、ほかの浪士や瑶泉院などとの交流を通して成長し、後半、徳川綱豊(後の将軍・家宣)の側室となる波瀾の半生。単なる恋愛か、みる者が判断するとして、どういう状況なら男が女を、女が男を愛おしくなるかを見事に描いている。
 
 このドラマは辛口だ。甘さの片鱗さえみられない。だからこそ酔いしれる。陶酔は甘さより辛さのなかに強く存在することを知るのだ。ドラマのなかでは、感情を噴出させる人物より抑える人間に胸を打たれる。わかる人にはわかるだろう。
15年前なら、忠臣蔵という壮大なドラマが役者を育てると書き記したろう。いまでもどこかでそう思ってもいるけれど、役者の評価は、卓越した脚本と演出がそろった上で、役者自らの感性とハラを思いのままに、あるいは思う以上に示せるかどうかで決まる。感性もハラも薄い役者を主要人物に掲げるドラマは評にかからない。
 
 きよ役・武井咲(たけいえみ)と江島役・清水美沙のハラがいい。特に武井咲は生涯の当たり役のハラをみせた。若いころの京マチ子、香川京子、佐久間良子に接近した。共演の三田佳子をこえてしまった。
 
 武井咲の欠点は目力が強すぎることである。目力が強すぎると主役の座を長くつとめることはかなわない。みる者が飽きる。舞台とちがいテレビ画面はクローズアップが多いのである。
かすかにかがやく目の動き、そしてハラによって芸をみせる。昭和の名優はそうして地歩を築いた。きよは目力をうまく隠し、役のハラで勝負した。そこがよかったのだ。
 
 配役を決めた人間が武井咲の演技をどの程度期待していたか知らない。が、予期せぬ出来事となったことは明らか。磯貝十郎左衛門役の福士誠治は芯になる女優をひきたてるのがうまい。
「純情きらり」の宮崎あおい、「京都人の密かな愉しみ」の中村ゆり(雲龍院住職の娘役)がそうであったように。福士誠治自らは毅然とした風情をかもしながら、女優の凜然と艶然、清楚をきわだたせる貴重な存在。
 
 武井咲の「咲」の字義は「わらう」(咲は笑の古字)。咲(えみ)はそこから命名されたのだろう。花が咲くのは花が笑うからである。それで思い出すのは学生時代の友。金沢の新聞社にいまだ勤務しているのであるが、数名の仲間と再会した夜ふけ、昔の女の話にふけって花のようにわらう。老境に入り、花や自然と同化しつつあるのだろうか。
 
 理屈っぽいドラマはつまらない。時代劇がおもしろいのは知性に訴えないからだ。知識を表に出す人間がおもしろいだろうか。退屈なだけである。人が感性と経験に魅了されるように、おもしろいドラマは感性や経験に訴える。友よ、知識を隠せ。
 
 赤穂浪士のひとり毛利小平太は当初吉良家討入りの盟約に加わっていたが、討入り前の12月11日、脱盟の書状を残し去ってしまう。理由もその後の消息も不明。
このドラマは毛利小平太を従来と異なる視点で描く。討ち入りの日、赤穂浪士の偵察をおこなっていた正体不明の編み笠男と差し違える。きよの行方や自分の素性を知られてしまえば支障をきたすからだ。毛利小平太が男と切り結ぶ場のさわやかさ、躍動感にしびれた。
 
 そこへいたるまでの展開も工夫されている。編み笠の男に尾行されたきよが、向こうから歩いてきた毛利小平太に道ばたで出くわし、つけられていることを告げる。そしてどうなるかが時代劇の醍醐味。演者がうまくないと張りつめた糸は切れる。大事の前なのだ。
 
 「拙者はあやつをおびきよせ斬る」。 「いけませぬ。相手は大小を差しております。そのような短刀では」。 「みくびられたものだな。災いの芽は取り除かねばならぬ」。 毛利小平太ときよの会話である。せりふのやりとりは通常、一方が押せば他方が引いて臨場感を得る。双方が押すと禅問答、もしくは「勧進帳」の弁慶と富樫になってしまう。
 
 「そのような短刀では」(押し)の次、「みくびられたものだな」(引き)を言うときの気持ちと調子が肝心。そして毛利小平太は、ふつうはきっぱりと言うせりふ「災いの芽は取り除かねばならぬ」を唱えるように言ったのだ。そこもよかった。
初放送時、このシーンと切り結ぶ一瞬のシーンが記憶に強く残った。「みくびられたものだな」と言うときの性根が入っている。弱者とみられる者が強者に立ち向かう性根という意味だ。
 
 毛利小平太をやったのは泉澤祐希。ドラマの途中で登場する楚々たる佇まいが秀逸。この役がどうなるか予感はあったが、まさかの展開だった。脇役・泉澤祐希の面目躍如。清々しさを保つ渾身の名演。
 
 四十七士には毛利小平太が討入りの当日逐電したと思わせる。真相を知るのはきよだけだ。小平太の最期と雪。編み笠の男は幕府の隠密で相討ちだった。報われない人間を報わせる作者の想像力、演出家の構築力に感嘆した。映画「最後の忠臣蔵」(2010)を凌ぐ傑作。秘する花もあれば、隠す花もある。
 
 四十八人目の忠臣きよは七代将軍徳川家継の生母、後の月光院。
討入りの場面は吉良邸入場、勝ちどきの声、退場など門外のみ。瑶泉院(浅野内匠頭奥方)が托す四十八個のミカンは討入り成就の象徴。毛利小平太のかわりにきよがミカンを持つ。四十八人目の忠臣が瞼の裏で二重写しになる。仕所の多い主人公の影に隠れた脇役。時代劇のすばらしさである。
                                              
                     (未完)

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