2024年4月7日      光る君へ
 
 平安時代中期の貴族、天皇を描いた時代劇が放送されるので楽しみにしていた。出演者の名前が出てくるイントロ場面の映像と音楽、衣裳は、「麒麟がくる」以来の出来映え。伊東敏江のナレーションもよく、吉高由里子の表情の変化もいい。
 
 吉高由里子は挑戦的な目、不敵な笑みで色恋と、その内側に潜む懊悩を表現した。傑出した創作家は挑戦と不敵の意志を貫かねばならないが、紫式部の吉高由里子にも同等のものが求められる。
そのあたりはこなせても、喪失を体験したときの無常観の表出が不十分。成就できない色恋のはかなさを寸時の表情や気配にあらわせていない。
 
 共演者でうまいのは段田安則、益岡徹、橋爪淳、高橋光臣。特に段田安則の芝居が抜きんでていた。国仲涼子はよかったがすぐいなくなり、岸谷五朗は下級貴族に向いておらず、佐々木蔵之介は出なくてよい。
紫式部の夫はドラマに登場させないという設定にすればよかった。吉田羊もあきません。弟・道長を支えるのではなく、足を引っぱってぶちこわす役なら向いていた。
 
 藤原頼忠(橋爪淳)を団時焉i故人)がやっていればという思いが浮かんでは消えた。橋爪淳とは対照的な滑稽味が出て、柔軟性と奥行きのある関白太政大臣になったろう。平安中期に必須の「いとおかしき」世界。団時焉A益岡徹、柄本佑に伊東敏江は「京都人の密かな愉しみ」。私たちが笑いを求めるように平安期の人たちも笑いを求めた。
 
 ドラマがよくなるのは宮中に「物の怪」騒動がおきてから。そのあたりから道長役・柄本佑の芝居も堂に入る。令和の時代に合うドラマにせねばということなら時代劇はやらないほうがいい。もののけを時代遅れと思う人がいるとしても、時代を超えて存在する。
 
 天変地異や不可思議な現象は霊魂の仕業と考えた時代ならではのおもしろさ。妖奇を信じ、時に怖れ、生活に影響をおよぼす時代を駈けぬけた人々が醸し出すミステリアスな雰囲気。占い師、祈祷師が医師を兼ね、不吉な現象は解明できず吉凶を占う、または祈祷で怨霊を追い払う。
 
 有名人といえばテレビタレントであるとテレビ局とタレント自身が思っている時代。平安時代の貴族社会で有名だったのは陰陽師と歌人。僧侶や神官による占いと呪詛が横行し、和歌が通信手段だった時代、和歌を詠むのではなく、チャラチャラした貴族娘の会話シーンは21世紀の若い視聴者への迎合、あるいは時間かせぎ。
 
 スマホをやりながら自転車に乗り、危うく人とぶつかりそうになったり、ぶつかって人が転倒するというシーンを見ることがある。ケガをした方はさせた人間を不注意と笑ってすませられるだろうか。平安時代なら自転車やスマホは物の怪と思われたかもしれない。巨大な物の怪がプーチンという名で現われたことに貴族は呆然として声を失う。
 
 「光る君へ」をみはじめて一ヶ月、イントロシーンのよさに較べて内容の貧弱さに落胆し、道長の日記「御堂関白記」、藤原実資の日記「小右記」、藤原行成の日記「権記」を買って読み進む。著者、編者は「光る君へ」の歴史考証担当の倉本一宏氏。ついでに「紫式部日記」も購入。
 
 2019〜2022年の「西行の時代」連載途上、「藤原氏」(倉本一宏 中公新書)を読む必要があった。倉本氏の藤原氏研究、著書のわかりやすさは別格。道長=頼通=師実=師通と続く藤原四代の変遷、摂関政治の繁栄と凋落について学びたかった。
 
 平安期宮中や貴族の行事、生活などに関して上記の日記は必須の資料。呪詛といえば、紫式部が仕えた中宮・彰子(道長の娘)の懐妊(一条天皇の子)が当初秘せられたのは、外にもれて呪詛されては一大事という道長の配慮だったという。紫式部日記はこのころ始まる。
彰子出産にあたって紫式部日記に、「もののけが悔しがってわめきたてる声の何と気味悪いことよ」と記したのは、彰子が安産だったことを物語る。
 
 「源氏物語」執筆は、誰に読んでもらうかということのほかに、紙が高価だった平安期、紙を大量に買える人がいたからで、求めれば紙を要るだけ出してくれた。
使命感と創作意欲、執筆力に支えながら書き綴けることができたのは、まずスポンサー、次に光源氏が彼女にとって離れがたい男になっていったからなのかもしれない。別の男に換えることのできない愛着と至高。
 
 意中の男と添い遂げられないという気持ちが顕著となり、紫式部自身が作中の女に化ける。ロケーションも地域別に広範囲に設定。当初の意図より長く多岐にわたったのは高位貴族の要請のみにあらず。色恋自体は単純でも、仮想恋愛一心不乱というべきで、巧みに書く天与の才。平安中期は文学の宝庫である。
 
 身分、状況がそれほど差のない清少納言に対するライバル意識は、高位高官の娘なら強くは感じなかったろう。紫式部日記には清少納言を批判する文言が点在する。清少納言も紫式部に対してざわめかしいことを記した。
 
 「光る君へ」に特徴的なのは美しい女性が登場しないことで、平安時代中期の貴族社会にも格別の美女はいただろうに。主役を吉高由里子にしたばっかりに容姿に秀でる美女は出しがたいということなら勘弁願いたい。
容姿端麗と才能は並び立ちがたく、それでもドラマをみる側は芝居や衣裳、ストーリー展開を楽しむ。色男や出世した男は羨望となり、思いを寄せる男の栄達は女の願望となるのだろうか。道長の栄達は歴史の一部にすぎないが、一部に恒久的価値があり、後世に名を残す人はおおむねそのようだ。
 
 過去、大河ドラマの主役で箸にも棒にもかからない女優は何人もいた。一年やっても上達しない。吉高由里子はそうはならず、ドラマの進行とともにうまくなっている。
時代と向き合い、なじみ、愛し、嘆き、紫式部の人生を生きてゆくことができれば達成感もひとしお。人生は一度、何度もあるなら物の怪さえも、あいつは物の怪に違いないと仰天する。役者や作家は可能なのだ、思いのままに変身することも。
 
 永遠を一瞬に閉じ込めるのが芝居の真骨頂。NG回数を増やして芝居が上達するわけではないだろう。一瞬の表情と寸時のセリフに役の世界を凝縮せねばならない。うまい、へたをそこで決められずどこで決められよう。
 
 
      紫式部が「源氏物語」や「紫式部日記」などを執筆したとされる廬山寺(ろざんじ)=京都市上京区寺町通広小路上ル


前のページ 目次 次のページ