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ヨークの城壁(CITY WALLS)にある城門の一つで、ここから城壁に上がることができる。
梅雨のない6月でもカラっと晴れる日は少ない。
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ハーロウ・カー(Harlow Carr)王立園芸協会ガーデンはハロゲートにあり、北イングランド園芸協会が設立された
1946年の4年後、ハーロウ・カーが本部となったという。
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ポピーは夏を告げる花。イングランド・カントリーサイドを4月下旬〜6月中旬にドライブしていると、
道沿いの畑や草地のそこかしこにポピーの群生を目にする。一面に咲くポピーの赤は鮮烈。
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ヨークからA64を北東に進み、MaltonでA169をウィトビー(ウィットビー)に向かう途中、道路をはさんで広大な
ノース・ヨークシャー・ムーアが広がる。ローズデール・アビー(Rosedale Abbey)はムーア中央の
ノース・ライディング・フォレスト・パーク(North Riding Forest Park)西部に位置し、絶好の見晴らし。
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イングランドで心惹かれる場所はコッツウォルズ、南イングランドのサウス・ダウンズ、デヴォン州の小さな町や村、コーンウォールなどである。
しかし、心の風景と呼べるほど引きつけられるのはムーアをおいてほかにない。ムーアこそが魂の安息の場である。
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ムーアの風景は、根ざすところは同じでも、時季折々刻々と変わる。ヘザーの花が咲いていなければ茶褐色一色であるが、
夏が来て花が咲き始めると徐々に風景は変わってゆく。日中、太陽はムーアすれすれの高さまでしか上らず、
そのままの位置を保ってぐるりと移動するだけだ。強い日差しを必要とする植物はあまり育たず、やわらかな光だけが
植物の生育を助長する。光が強ければヘザーはたちまち枯れるのだ。
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晩夏、ヘザーのピンクが赤紫色に変わると、あたりは晩秋の気配につつまれる。思いの外ひんやりした空気。
時折、思い出したように突風が吹く。群生するヘザーに閉じ込められた風がうめき声をあげる。一見のどかな風景のなかに別のドラマがあった。
※ヘザーとヒースはよく似ているので混同されやすいが、ヘザーはカルナ種、ヒースはエリカ種という違いもあり、ヘザーの
花弁は額片と同色で4枚、花弁に重なった額片は花のようにもみえるし、ヒースの花弁は額片より長く、ヘザーは短い※
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ヨークからウィトビー(ウィットビー)へのドライブは忘れがたい。途中、A169の両側に延々と続くノース・ヨーク・ムーア国立公園は、
イングランドNo.1の光景といっても言いすぎではない。そこを通ると車を停め、予定も時間も吹っ飛んでムーアと対峙せざるをえなくなる。
広大なムーアを北東に抜けると港町ウィトビー(ウィットビー)。まぶしいほどの明るい日差し。だれが演出したわけのものでもない、なんという対照。
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キャプテン・クックは航海訓練を受けるために1746年、18歳のときウィトビー(ウィットビー)に来た。
長じてエンデバーをウィトビーで造らせ、1768年から3度の大航海(ニュージーランド、オーストラリア、ハワイほか)
に出た。ウィトビ(ウィットビー)ーの北にステイシィスという小さな漁業町があって、クックはそこの小間物屋の徒弟だった。
爾来200年余、木造帆船エンデバーは毎年のようにウイトビー(ウィットビー)を出航することとなる。
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ウィトビー(ウィットビー)」の歴史は古い。7世紀にはサクソン人が住み、657年に修道院が建てられた。爾来一千有余年、
産業革命華やかなりしころ、ウィトビー(ウィットビー)は造船、捕鯨で最盛期をむかえ、現在は保養地として賑わっている。
キャプテン・クックの話は「England」で記したので繰り返さない。
修道院は多くのことをみてきたはずだ。歴史の病葉がうずたかく積み重なり、そのなかに埋もれ忘れ去られたことを。
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季節は初夏、風が吹けば波も高くなる。一見のどかな風景にもみえるが、北海から吹き寄せる風は真冬なみで
頭の芯がキュンと痛い。そこが北海の北海たる所以である。
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ここも北海。しかも、ベタ凪。6月下旬午後のロビンフッズ・ベイ。自然はきまぐれ、日によってはこういう日もある。
ロビンフッズ・ベイに面した小さな村には一軒のレストランもなかった。そこがいい。昼食ははウィトビー(ウィットビー)かスカーバラで。
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ストゥープ・ブローの採石場近辺からロビンフッズ・ベイをのぞむ。
採石場は現在、ロッククライミング用の急峻な崖となってクライマーの冒険心を沸き立たせている。
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北海に面した町スカーバラ。ブロンテ・ファミリーのうちアンだけがここで没した。
アンの墓はこの町のセント・メアリーズ教会に在る。
スカーバラはかつて市が開かれていた。スカーバラ・フェアという名で。
8月15日から45日間にわたって市場があったのだが1788年に閉鎖。
その頃、イングランド民謡を下地にした歌が作られた。長期に及ぶ戦いに疲弊した
スカーバラ市民が心の平安と戦争のない日々を願って作った反戦歌である。
その歌「スカーバラ・フェア」は20世紀になってその名を世界中に知られることとなる。
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1820年から1861年までブロンテ家の家族が暮らした家。部屋は19世紀初期の様式で装飾、
家具、装飾の細部にいたるまで当時が再現され、姉妹の所持品(本、絵、原稿)も置かれている。
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ブロンテ記念館の庭。こざっぱりして、妙にくつろいだ気分になるということのほかに特段記すことはない。
2階に並んだブロンテ姉妹の寝室3部屋は往時のままであるが、特筆すべきはエミリーの寝室から臨む
屋外の風景。そこからは間近に墓地がみえ、いかにもという感じの樹々が生い茂っている。
「嵐が丘」にはヒースクリフがキャサリンの墓を暴くシーンも出てくるが、あれはエミリーが自室の窓から
何度も目撃した埋葬シーンの刷り直しと思われる。想像力は墓地の林よりはるかに広大なのだ。
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ここからの道はブロンテ姉妹の心の風景ともいえるムーアへとつづく。
私たちの感性はみせかけの美しさによって育まれるものではないだろう。
時には殺伐とした冬景色をみて育まれることもあるのだ。
大地が生み出すのは豊かな実りだけではない、胸にポッカリあいた虚空
をさえ生み出すのである。一途に思いを寄せても結ばれない、いや、
一途であるがゆえに結ばれることを拒む魂が私たちのなかにひそんでいる。
エミリー・ブロンテがいいたかったのはそういうことなのかもしれない。
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ペニストン・ヒルはブロンテ姉妹の散歩した丘であり、丘の向こうにはムーアが広がる。
「嵐が丘=Wuthering Heights」の舞台はヒースの生い茂るムーアだった。
ワザリングはこの地方特有の方言で、荒涼たる丘を吹き抜けてゆく激しい風
がビュービュー鳴る音をいう。「嵐が丘」とはけだし名訳である。
6月はまばゆい光に満ちているが、晩秋ともなると気候は一変し、寒々とした風景
が作家の想像力をかきたて、魂をもざわつかせたに相違ない。
嵐が丘の背景は初夏のムーアではなく、殺伐とした冬のムーアなのである。
エミリーは自らと同じ魂がムーアに在ると信じた。それがヒースクリフかもしれない。
嵐が丘の主人公はヒースクリフではなく、むしろムーアではないだろうか。
生んだ作家と生まれた人物は別々ではない、すべてムーアに生きた同じ魂なのだ。
名作は豊かな感性と想像力、そして思索のすえに生まれる。肥沃なのはハワースの
大地ではなく人々の心であってみれば、それこそが北イングランドの力でもあるだろう。
現在のペニストン・ヒルは住民と犬の散歩道であり、子供たちの遊び場である。
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嵐が丘の舞台となったムーアの下方に位置するB&B「アッシュマウント・ゲスト・ハウス」。
かつてはブロンテ家の医師エイモス・インガム博士の家。ブロンテ記念館から徒歩4分。
ハワースへは季節を問わず日本や各国からの観光客が引きも切らず、日本語の道しるべ
も立てられている。イングランドのブロンテ・ソサエティが善意で行っていることであるが、
Wuthering Heightsに日本語の道しるべが似合うかどうか疑わしいように思う‥。
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アッシュマウント・ゲスト・ハウスの裏庭。このB&B、ハワースのB&Bのなかでは秀逸。
宿泊料金はベッド&朝食でシングル50〜75UKポンド、ツイン75、90、110UKポンド。
上記は07年の料金体系であるから、次年度以降は多少の変化があるかもしれない。
ツイン75ポンドの部屋で十分。110ポンドの部屋はSecret Gardenと屋外Spa付き、
部屋も高級ホテルのデラックスルーム並み、B&Bの概念からすればピンとこない。
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APOTHECARYは薬局の意ですが、洋服&小物類も販売。英国だけでなく、
欧州の薬局の店構えは私たちの目には奇異に映り、薬局にはみえない。
メイン・ストリートは急な坂道。この店は坂道を上りきったところにある。
この店と棟続きの左隣はB&B。その名もアパスカリー・ゲスト・ハウス。
住所はまことに簡単明瞭、「86 Main St Haworth」。
この薬局は「Apothecary」と看板を掲げているので救われる。何が救われない
かといって、見た目に薬局らしさは皆無で、おまけに看板表示のない薬局は
救いようがない。1996年秋、ザルツブルクのゲトライデ通りで大汗かかされた。
(「ヨーロッパ旅行記」2004の「ザルツブルクの憂鬱」に記しました)
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発端は好奇心であり遊び心の発露であったとしても、いつの間にか
思索するための場所となることもある。ブロンテの滝もそうした場所の一つで、
ブロンテ姉妹は凍てつく冬以外、ここまで頻繁に歩いてきたもののようである。
ブロンテ記念館(ブロンテ一家の住居)からここまで徒歩で小一時間。
ペニストン・ヒルやムーアに連なる周回8qの散策用小道もある。
ブロンテ記念館1で、家族が1820年から1861年まで暮らした家と記した。
だが、1861年まで暮らしたのはブロンテ姉妹の父で牧師のP・ブロンテ
(1777〜1861)だけで、その妻マライア(1783〜1821)は住み始めて
すぐ鬼籍に入り、姉シャーロット(1816〜55)、エミリー(1818〜48)、
妹アン(1820〜49 スカーバラで没)と、女性はことごとく若死にしている。
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ハワースにいくつかある丘に上って町を俯瞰する。意外と美しい。
5月下旬〜6月下旬、緑あざやかで、よく晴れた日は嵐が丘に期待したイメージは裏切られる。
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ハダースフィールド駅。パリのオルセー美術館はかつて駅だった。
オルセーはいかにも元駅にみえるが、ここは美術館にみえる。1846年建造。
英国人の多くが、英国で最も美しい駅と称賛している。
ヨークシャーテリア発祥の地としてもハダーズフィールドの名は知られている。
ヨークシャー地方の炭坑や繊維工場においてネズミ捕りさせる目的で飼われていた犬を、
19世紀半ばハダーズフィールドで訓練育成し、こんにちのヨークシャーテリアならしめた。
マンチェスターからは約40q、ハワースへもリーズへも約24qの地点に位置する。
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ハダーズフィールド「ポール・ムーア」の落日。
空と丘とを隔てる稜線で水色、藤色、薄紅色が自らを主調(主張ではない)し、
空がパレットとなってそれぞれの色を微妙に溶かし混ぜ合わせる。
そしてついには、紺色の大きなマントが大地に降りてくるのだ。
旅に出て落日をみるたびにヘラート(アフガニスタン)のタフティ・サファールを思い出す。
あのときの、森羅万象をあかく染めずにおかない落日の調べ、深淵、途方もなさ。
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ランカシア州のダウナムはプレストン=スキップトン間(A59)の中間に位置する小さな町。
ガイドブックに載ることはないけれど、ふと足をとめた忘れられぬ風景。
ユネスコの世界遺産に指定される類の景観ではないが、大切なのは景観を守ることである。
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ここはウェスト・ブラッドフォード=ランカシア州=の小さな村。
リーズの近くにブラッドフォードという町があるが、そことはずいぶん離れ無関係。
それにしても、ただ歩くことの快楽。ほかのものには代えがたい愉悦、充足感。
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ランカシア州ホッダー谷のファーム・ステイ農家。
ファーム・ステイにチャレンジしたいと思っているが、いまだ果たせずにいる。
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ビショップ・バートン(Bishop Burton)はヨークの東、スカーバラの南に位置する
East Riding of Yorkshire州の小さな町。
再びみることはないであろう風景。世界遺産にまさる自分遺産。
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名も忘れた小さな村の切手売場。なのになぜか忘れられぬ光景。
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サースクはヨークシャー・デイルとノース・ヨークシャーの間にある小さな町。
小さな町にこそ「おやっ」と思う家や街並みのあるのは旅人の知るところである。
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塩野七生の「ローマ人の物語\・賢帝の世紀」に次のごとく記されている。
『皇帝ハドリアヌスの治世は、二十一年である。そのうち彼が本国イタリアにいたのは、三回を合わせても七年
でしかない。しかも、四十五歳から五十八歳までの十三年間のほとんどを、視察の旅で属州を巡行していた。』
『紀元122年、四十六歳になったハドリアヌスは、春を待ってライン河の河口から、船でブリタニアに向かった。』
ローマの属州ブリタニアでローマ化した人々を先住民ブリガンテス(ローマ人の命名。ラテン語で山賊の意)
の暴挙、蛮行から守るために作られた防壁がハドリアヌスの長城であり、タイン河の河口からニューカッスルを
経てソルウェー湾までの約117qにおよぶ石の壁、塔、城塞の総称なのである。
万里の長城のような長さと迫力はないにせよ、中国の場合は歴代王朝が修復、増築を繰り返し、
現存のものは概ね14世紀以降の明時代につくられたものである。それに較べハドリアヌスの長城は
122年に着工し、約6年で築かれたものがいまも原形をとどめている。そこが中国とは違う。
建造当時の防壁は高さ4,5b、厚さ3bの壁で、前面に深い溝が掘られ、約1,5`ごとに見張り塔があった。
(1987年、世界文化遺産に登録)
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ヘクサム大修道院前の広場に市がたってにぎわっている。ヨーロッパではおなじみの風景。
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アニック(Alnwick)の北東10qにクラスター村があり、そこから3q北北東に
ダンスタンバラ城が北海を眺望するかのごとく厳かに屹立している。
城はナショナル・トラスト所有であるが、城までの道はなく、クラスター村の駐車場から
歩かねばならない。そこがなんともいいように思うが、歩くのはご免という方には
適さないだろう。城は間近に見えても、なかなか到着しない。
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バンバラの歴史は古く、先史時代から要塞化された居住地として使われ、ローマ軍によって占領された後は
むろんローマ人の居住地となったが、彼らが放棄した後は再びケルト人族長の城砦となる。
地理的に北方はスコットランド、東方(北海)からはバイキングといった脅威にさらされ、この地を治めた者は
枕を高くして眠れぬ夜が長かったと思われる。6世紀にアングロ・サクソン王アイダが治める王国の首都に。
アイダの孫はベバなる女と交婚、ベバにちなんでベバンブル(Bebbanburgh)、そしてバンバラ(Bamburgh)へ。
7世紀、血なまぐさい歴史にまみれ、爾来、バンバラがイングランドの首都として栄えることはなかった。
(11世紀に至ってノルマン人もこの地の重要性を認め、岩を削り、随所に木柵をこしらえ城砦とする)
町側からみるバンバラ城↑
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毛足の長い雑草が風にゆれる光景をみて思い出すのはコッツウォルズのアッパースロ−ターから
ストゥに向かう道すがら、車二台すれ違うのがやっとという小道で風と遊んでいた雑草である。
あの雑草はこれよりもっと長かった。それゆえ風になびくようすも実にダイナミックだった。
↑北海側からみるバンバラ城
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ダラムの西20キロにウォルシンガムという人口2千人ほどの小さな町がある。
町の周辺に美しい渓谷や丘陵地帯(ウェアデール=Weardaleと呼ばれる)があって、そこを歩くために
初夏から秋にかけて多くのハイカーがやってくる。
ウェアデール・ウォーク(Weardale Walk)は長短さまざまな距離(6〜20キロ)とコースに分かれる。
ウォルシンガムからウェアデールまではたいした距離でない(約15キロ)として、鉄道か車、または徒歩。
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バンバラ城の北西6qにあって、野鳥観察、乗馬、キャンプ場、20キロ強の黄金の砂浜で知られている。
ここから10数キロ北西にホリー島=Holy Island(後出)がある。
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この地にリンディスファーン修道院を創設した聖エイダン(Saint Aidan=司教 生年不明 AD651没)は
島(画像に小さく写っているのはリンディスファーン城)をキリスト教布教の拠点とした。
※アイルランド出身の聖エイダンは、スコットランド西岸の島アイオナから修道士の一団を引き連れ、
ここに修道院を建て、リンディスファーンの司教となった。
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1932年ダラム生まれの彫刻家Fenwick Lawson作「The Journey」。1999年の作品。
ホーリー・アイランド(約5平方キロ)からダラム大聖堂へ聖カスバートの遺骨を運ぶ6人の修道士。
ローソンの作品は2005年からセント・メアリー教会に展示されている。
☆ホーリー・アイランドはリンディスファーン島とも呼ばれる。聖カスバートは7世紀、聖エイダンの死後修道院長となった☆
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