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コーンウォール州のルー(Looe)はルー川の河口に開けた漁港で、ガイドブックに紹介されることの少ない
人口5千人の町。West Looe(画像左)とEast Looe(画像右)に分かれ、唯一Looe bridgeが両地をつないでいる。
画像下側が河口。
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East Looe とWest Looe をむすぶ橋。
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河口から橋方向へのぼっていく小さな漁船。
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ルーからA387を6キロほど西へ行くと、時間の止まった村ポルペロー(Polperro)に。
潮の干満が水際の建物にラインを残し、路地裏には古ぼけた漁師小屋が点在する。
人気のないときに訪れると、かなしくなるほど美しい村である。
丘からの光景はのどか一色、ポルペローの歴史さえまどろむ。
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海、港、釣り船、丘、家並み、空、家族。
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急斜面、丘、新旧の家、屋根、小さな花壇。光と風景の調和。
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馭者は若い女性。地元の乗り合いバス。
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クレアモントホテル(Claremont Hotel)前に停車中の乗り合いバス。上と下のバス、どちらに乗るか。
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ポルルーアン(Polruan)からフォイ(Fowey)を臨む。フォイ川に浮かぶボートはおもちゃのようだ。
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地図右下に Polruan の表示がみえる。
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上の地図のESt Catherine's Catsleと記されている場所から対岸をのぞむ。
1530年代にヘンリー8世が建築したセントキャサリン城の一部で、見張り台である。
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メヴァギッセイはフォイの南西24キロに位置する人口2200人ほどの小さな町。
ここから北西に約5キロ行けばロストガーデンだ。
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イングランドにはベスチャトーローズムーア・コテージなど、ガーデニングに興味をもつ人にとって垂涎ものの庭が
多い。そのなかでも第一次大戦の勃発した1914年から1991年まで77年間放置され、忘れさられた庭がある。
その名もロストガーデン。
19世紀初頭に体をなした約9万6千坪の庭園は、1991年までの荒れ放題から有志による修復を遂げ、
いまでは、亜熱帯森林、ジャングル、英国式やイタリア式庭園、キツネやフクロウの棲息する森、荒れ地を
入れると24万坪の規模である。うっそうとした森に季節の花々が咲き乱れ、しかもそれぞれが昔からそこに
植わっているかのごとく呼吸している。
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ロストガーデンを一日でみるのは至難。では二日ならだいじょうぶかなのというと、その時点だけなら
だいじょうぶと応えるほかない。というのも、ここは日々増園されていて、いま荒れ地でも数週間か
数ヶ月後には整備された森か庭になっているかもしれないからだ。
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夢みる女人といえなくもないけれど、身のあるミイラといえなくもないような。
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涅槃仏・イングランド様式なんてバカ書いて。
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フォイの北西約8キロにセント・ブレイジーという小さな村がある。エデン・プロジェクトはその村から北北西へ2キロ。
2001年3月に環境保護を指標に一般公開され、バイオームと呼ばれる昆虫の複眼か卵のような二つの温室
で構成される複合施設。温室内は植物栽培が主たる用途で、熱帯や地中海性気候を保ち、地球と植物の関わりを
検証している。バイオームの六角形パネルはETFEなる素材で造られ、軽量な上に太陽エネルギーを最大限取り込む
効果があるという。
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見てのとおり巨大なハチ。
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エデン・プロジェクトを南下しA390を走り、「St Austell」からB3273をさらに南下すると
ゴラン(Gorran)の町に着く。そこから1マイルほど南東に進めばゴラン・ヘイヴンの海が広がる。
眠ったような静けさはまるで湖。風もないのにゆったり波がうねり、水平線が円いことで海とわかる。
英国海峡だ。
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ポートロー(Portloe)はゴラン・ヘイヴンの西7キロに位置し、このあたり一帯はローズランド・ヘリテイジ・コーストとして
美観地区に指定されている。
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フォイからA3082を経由しA390を西南西に進めばコーンウォールの州都トゥルロへ。走行距離35キロ。
英国人はTruroをトルァロゥと発音する。
人口2万9百人ほどの小規模な州都で、ルー、ポルペロー、フォイとちがって海岸に沿っていないせいか、
港町とは異なるミニ商都のおもむき。トゥルロではなくトルロと記載する書(ロンリープラネット「英国」)もある。
トゥルロの名物はやはりこの貨幣ホールと2階のティーハウス(ボスカウェン通り)。
13世紀から錫の採掘で繁栄した町の中心地にヴィクトリア様式の建物を復元し、周囲との調和をはかった。
ティーハウスの名はシャーロット、英国ティーハウス賞を繰り返し授賞している。
初のイングリッシュ・ティーはコーンウォールで栽培されたとかで、シャーロット家との関係は定かではないが、
独自のブレンドとヴィクトリア時代の重厚壮麗な内装、調度品、19世紀の絵画、書棚などで高人気。
ヴィクトリア様式はウェイトレスの制服にまでいたっており、メイド喫茶の草分けかとも思ってしまう、が、
女給さんはみなさん中年で、でっぷり肥えておいで。そこのところがなんとも言い難し。天は二物を、でもないし。
天寿を全うされたヴィクトリア女王の後半生のご体型に合わせて採用されたのかしらん。
※13世紀、リチャード・プランタジネット(コーンウォール伯)はコーンウォールの錫採鉱地を所有し、また、貨幣鋳造所も経営していた。
おりから始まったイングランドの貨幣制度改正によってリチャードは巨万の富を得、神聖ローマ皇帝選挙に食指を伸ばす。
王も枢機卿も融資を待ち焦がれていたのだ。この時代、つまり大空位時代(1256〜73)、リチャードはドイツの王位についた。
が、神聖ローマ皇帝の座につくことはなく、1272年リチャードは逝去。その後皇帝となったのはハプスブルク家のルドルフ1世である※
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3万4千坪(28エーカー)のトレバーガーデン(Trebah Garden)はロストガーデンの3分の1程度の規模の庭園であるが、
広大なヘルフォード川沿いにあって、周囲をめぐる小道からの眺望は絶好といえる。
トゥルロからファルマス(Falmouth)をめざしてA39を約15キロ南下し、A394と交差するTreliever Cross=ラウンドアバウトを
さらに7キロ南下すると「トレバーガーデン」の標識がみえてくる。
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このあたりは強い潮風が吹くらしく、松、カエデ、カシ、ブナなどの樹木を植えて防風林の役目をさせている。
気候はコーンウォール南部一帯の傾向として比較的温暖ということで、地中海産やチリ産の亜熱帯植物も多く
みられ、潮風に強いローズマリー、ハマナス、アガバンサスなどのほかにアジサイも植えられている。
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グレンダーガン・ガーデンはトレバーガーデンのすぐ近く(東1q)の地点にあり、敷地はトレバーガーデン同様海に面している。
庭園の目玉は迷路、1833年に完成したという。
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迷路で迷うのはだいたいわれわれ中高年。判断力は冴えてくるはずなのに、直感力と記憶力は衰えるからでしょうな。
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ファルマスからA390を西にヘルストン(Helston)まで行き、リザード半島を南下するA3083の終点がリザード。
イングランドの最南端である。このあたりの岸はほとんどがナショナル・トラスト所有という。
リザード半島の大部分は厚い花崗岩でおおわれている。
運がよければアザラシ、イルカを見ることができる。ときにはサメも迷い込んでくるそうだ。
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リザード半島から北西3キロに位置。このあたりの海岸はナショナルトラストが所有する。
コーブは入江というほどの意。コーンウォールの景観のなかでもひときわ美しい入江。
画像の岩は蛇紋岩で緑色が混ざっている。成分として微量のコバルト、ニッケル、クロムを含む。
カイナンス・コーブへの順路が幹線道路からはずれるためか、訪問者の少ないのはありがたい。
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ファルマス(Falmouth)とペンザンスの中間地点、A394沿いに位置する人口1万人の町ヘルストンが活況を
呈するのは通常5月8日・フローラ・デイ(Flora Day)である。この日ばかりは町中の老若男女が衣装をまとい
踊りに興じる。町の歴史は古く、コーンウォール州ではマラザイアンに次ぐ古さという。
十字軍遠征で有名なリチャード1世(獅子心王)の弟・失地王ジョンが1201年、ヘルストンに憲章を与えた。
何のことかと思えば、錫の鉱区ヘルストンを治めていたコーンウォール公爵に勅令を発して認可したという。
フローラの日は朝から夕方までダンスが4回催され、町の街路が埋め尽くされる。最初のダンスは午前7時に始まり、
10時ごろには子どもが白の装束をまとって、踊りながら街路を練り歩く。
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フローラ・デイ3回目のダンスに向かうためギルド・ホールから出る熟年男女。
胸の花飾りは毎年異なるように思うけれど、このときは可憐なスズラン。
見物のみなも和気藹々、警備のポリスマンも楽しんでいるように見えます。
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井村君江著「コーンウォール」によれば、マラザイアンは「1595年、自治行政を行う町として、
エリザベス1世から勅使書(チャーター)を受領したという。
チャーター受領のことをいえば、ペンザンスは1614年に、セント・アイヴスは1639年に受領している。
画像右、水色のとんがり帽子の小さな建物はマラザイアンのタウンホール(町の庁舎=1Fは郷土資料館)
立て込んでいるのはこのあたりだけである。
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マラザイアンのメインストリート(右側)。といっても道はこれ一本といってもよく、道(ペラヌスノーからペンザンスまで)の
両サイドに家並みの広がる人口1380人ほどの小さな町である。店らしい店といえば薬局、パン屋、よろず屋が各一軒、
ほかに骨董屋らしき店が数軒。パブがあったかどうかも怪しい(パブは3軒あるそうだ)。
マラザイアンの魅力は対岸に立つセント・マイケルズ・マウントを間近にみることに尽きる。
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対岸のマラザイアンは「ブリテン島最古の町」と記されている(【セント・マイケルズ・マウント記録集】
ロンドンはマラザイアン(Marazion)より古いには古いが、ローマ人がつくった町である。
同記録集に「1070年、セント・マイケルズ・マウントの市場を催すことを許可する」との記述もある。
イングランド南東部エセックス州のコルチェスター(Colchester)もまたブリテン島最古の町と主張している。
コルチェスターにはローマ人が建設したブリテン島最古の城壁跡もあり、ローマ帝国統治下のブリタニア
の最初の首都で、ロンドンより古い町であることに間違いない。
ケルト人は基本的に文字をもたなかったため確たる資料は残っていない。しかし先住民ケルトはローマ人に
先んじてブリテン島の最西部に町をつくっていたのではないだろうか。
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干潮時、対岸のマラザイアンへ移動する人たち。
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満潮になる前にマラザイアンへ移動しなければなりません。
歩いていてもひたひたと潮が押しよせ、水位が高くなるようすがわかります。
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満潮ともなると徒歩で向こうに渉れなくなる。漁師にはみえないこの方は何をしているのでしょうか。
(マラザイアンからセント・マイケルズ・マウントをみる)
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引き潮ともなるとご覧の通りのありさま。干潟の舟というのはある意味みじめだ。人もこんな状態になれば
身動きできず、潮が満ちるのを待つしかない。潮が満ちればの話だが。干潟の先はマラザイアンの家並み。
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うしろはセント・マイケルズ・マウント城。いつの日か水陸両用=ボート&カーを運転する機会を持ちたいものです。
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マラザイアンからみるセント・マイケルズ・マウント。引き潮なので対岸へは苦もなくわたれます。
マラザイアンにはこれといった宿はない。ところがマラザイアンの3キロ南東のペラヌスノーにロケーション抜群の
B&Bがあって、江戸豆農場という。部屋はわずか3室で、部屋名はブルー、ピンク、アプリコット。
年中予約で満室なのは、室数が少ないのと、高台に位置しているので、セント・マイケルズ・マウントも一望でき、
あたかも自分の別荘ですごしているかのごとき錯覚に陥るからだ。
日本から予約の電話をかけても、江戸豆マスターの応対たるや実にそっけなく、泊まるのよそうかなと思うが、
なに、見晴らしのよさと粋な部屋の誘惑に抗えず予約してしまう。
【「アプリコット(いちばん狭い)しか空いてないよ、それでようござんすかい。イヤならヤメな」みたいな応対ですわ。】
江戸豆農場は Ednovean Farm という。豆はbで、vではないなどとヤボはいうべからず。
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ペラヌスノー(Perranuthnoe)村から臨むセント・マイケルズ・マウント。ミスティ・ブルーの空が漆黒の
マントになって覆いかぶさるまで眺めていたい。
セント・マイケルズ・マウントの記録は紀元前310年まで遡る。ギリシャの船乗りであったピシアスが
訪れた時の記録が最も古いという。ここを貿易取引の拠点とし、錫、銅を絹、宝石と交換するため、
フェニキア、カルタゴからの船が出入りしていたそうである。
495年頃、聖ミカエルが島の断崖絶壁に立っているのを見たという漁師の目撃伝説がもとになって
ここが巡礼の地となり、僧院が建てられたという。11世紀、ベネディクト派修道士に傾倒していた
エドワード懺悔王が、かのモン・サン・ミッシェルにここを与えてしまったという記録もあっておもしろい。
14世紀、対仏戦争の間隙を縫ってヘンリー5世が再びイングランドの所有とし、その後の紆余曲折を経て
17世紀中頃、J・セント・オービンがこの島を購入、そして、彼の子孫が代々相続し現在に至っている。
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見晴しのきく場所へ子供を連れて行こうとしているヤングママ。
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ベネディクト修道会礼拝堂から様変わりした中世の城が屹立する。
よく霽れた日には西にランズ・エンド、東にリザード岬を遠望できる。
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かつてマーゾル、ニューリンとともにコーウォール三大漁港と呼び名も高かったペンザンスも、いまや商業の町。
ただし、カレイ、シタビラメ、タラ、ニシンなどの新鮮な魚を食べさせてくれるレストランは健在。
画像の建物は Lloyds TSB。1765年創業のロイズ銀行と1810年創業(創業時は別の名)の
トラスティ・セービング・バンク(TSB)が1995年に合併・設立、英国の金融統合、メガバンク誕生に先鞭をつけた。
銀行前の像はハンフリー・ディヴィ卿(1778ー1829)。塩素やヨウ素の特質研究のほか、坑夫が鉱山で使用する
安全ランプの発明者として知られている。ランプはコーンウォールの錫、銅などの採掘に寄与。人口約2万人。
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雲行きが怪しくなり、そんな時間でもないのに薄暗くなった初夏のペンザンス・ハーバー。
夏期、よく霽れた日にはどことなく地中海的な雰囲気もあるにはあるが、曇ったり雨だったりすると、
北フランスならまだしも、北ドイツなのかどこなのかわからなくなってしまう。
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ラニョン・クォイト(Lanyon Quoit)はコーンウォールでもっとも古い古代墓地という。
コーンウォール内陸部のMadron北西4キロにラニョン村は位置する。ペンザンスから約8キロ。
この花崗岩の遺跡は石舞台のようにもみえ、馬に乗った人が通れる高さだ。
井村君江著「コーンウォール」には「ラニョン・クォイトはアーサー王と騎士たちが最後の審判の日に、
この石のテーブルで晩餐をするだろうとマーリンが予言したことになっている」と記されている。
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マウゼル(Mousehole)は地元の人が発音するとマーゾルと聞こえる、小さな漁村である。
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村は小さくても新鮮でうまい魚介類を食せるレストランが多く、いわば穴場的存在。
コーンウォール南部沿岸の海は魚類が豊富。デヴォン州のプリマスやブリックシャムのようにトロール漁船を使う
大規模漁法はないが、小型漁船を使う漁業は盛ん。
8月〜9月、沿岸へ押し寄せるイワシの大群は主に缶詰となって英国中に出回るという。
サンドイッチの普及する英国に不可欠なのはツナサンド。
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ミナック・シアターはペンザンスからランズエンドに向かう途中の、ポースカーノ湾(Porthcurno)を
見下ろす崖を切り開いた岩の中腹にある野外劇場。
つくったのは一人の女性ロエナ・ケイド(1893−1983)。1923年から手押し車で石を運び、
ドリルで石板を彫り、1983年6月に亡くなるまで独り辛抱強くやり遂げた。その模様の一部を
映像でみたことがある。ロエナ・ケイドはすでに老いていたが、仕事ぶりは神々しかった。
石椅子の背もたれにはハムレット、オセロ、マクベスなどの名が彫られ、800名が座れる。
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演目はアーサー王の魔法使いマーリン(Merlin)に関するものだった。
ミナック・シアターは英国のビッグロード・アトラス(Big Road Atlas Britain)ほかの道路地図には
ミナック・オープンエア・シアター(Minack Open Air Theatre)と記されている。公演は6月〜9月。
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ここで「テンペスト」をやれば臨場感に酔わされるかもしれない。
向こうに広がるのはポースカーノ・ビーチの断崖。
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見はるかす遠浅の海がミナック・シアターの眼下に広がる。ロエナ・ケイドがここに野外劇場を
つくった理由がわかるような気がする。ポースカーノはコーンウォールを代表するビーチだ。
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コーンウォール半島が西に向かって徐々に細くなり、ギザギザの海岸を呈しながらランズエンド岬へ
進む途中にポースカノー村はある。
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Peach は Beach と一字違い。
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ポースカノー・ビーチからB3315を西南西に4qほど行くとランズ・エンドに着く。駐車場に車をおいて
サウス・ウェスト・コースト・パスを南東に向かって2q弱歩けばNanjizal Beach(またはミル・ベイ)に至る。
バード・ウォッチングの名所であるらしいが、鳥は彼方の谷と崖にいる模様で声はなく静寂そのもの。
なににしてもステキなフットパスであることに変わりはありません。
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セント・アイヴスは人口1万人弱のリゾート地で、1811年のターナー訪問以来、絵描き、
彫刻家などの訪問が後を絶たない。バーナード・リーチ(1887ー1979)も住んでいた。
リーチ没後の陶房は若い陶芸家に引き継がれ、隣に濱田庄司の益子焼きも展示されている。
陶芸に適した土の産出するセントアイヴスで英国初の登り窯を作ったリーチは、日英友好を楽焼で行い、
また、六代目尾形乾山の門を叩き、柳宗悦の邸内に窯をつくり、共に工芸を敷衍する運動に尽力する。
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彼方に広がる海は大西洋。
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浜辺を黙って眺める。それだけで報われる何かが在る。
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セント・アイヴスからいったんA3074に入り、南東へ6キロすこし進んだA30のラウンドアバウトで左折、
A30を北東に45キロ行ったインディアン・クィーン(Indian Queens)で左折し、A39を10キロほど北上。
Padstowの道路標識に従ってA389を北西に6キロ行けばパドストウに着く。
人口2500ほどの小さな漁村であるが、新鮮な魚介類を提供するレストランの数は多い。
そのなかでも「シーフード」は、味の保証はできても料金は補償の限りでなく、東京なみ。
その昔、集会の場所には誰もが知っているところが選ばれ、それは川の渡し場とか大木や巨石のきわ、
街道沿いの水場であった。そのような集会の場を意味する言葉として使われたのがStow(ストウ)。
コッツウォルズのStow on the Woldは、かつてEdwardstowと呼ばれていた。
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この小道を抜けると Hawker's Cove へ行く。ホーカーズコーブはパドストウの西、キャメル河口に位置し、
聞くところによるとナポレオン戦争時代の要塞があったとか。
そうとは知らずこの小道を歩いていると、子どものころ泳いだ海か川へ通じる道にも思われ、バスタオルの
ない当時、草むらにかくれて裸になり、水着に着替えた記憶がよみがえってきた。
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コーンウォールの素朴な一面を象徴するとでもいうか、のどかな風景。
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ティンタジェル岬まで車を走らせると、コーンウォールはもうすぐ終わりかという感慨に襲われる。
ティンタジェルは13の村から成り立っているが、どの村の名にも英語らしい響きはない。
Tregatta、Treforda、Bossineyなど、舌を噛みそうな名である。ティンタジェルはアーサー王誕生伝説の地なのだ。
対岸に城跡が、こちら側に英国最後のケルトの教会遺跡があり、断崖が要塞となって各々孤立していた。
近年(1991年)の発掘調査では、ティンタジェルには12世紀まで城は建っていなかったというが、
12〜13世紀になるとこの地に城と教会があったと実証されている(「井村君江著「コーンウォール」)。
こんなところにまでローマ人は痕跡を残しており、3〜4世紀のローマの壺やコインも発掘されている。
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左側は城跡、右側はケルト最後の教会跡。長い歴史の変遷をへて二つの断崖は結ばれることとなる。
崖の上に立つと廃墟特有の何か、壮大な叙事詩のようなものが心中を去来した。
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アーサー王伝説は英国人にとって別格のおもむきを持つ。国外より国内からの訪問者が多いのは当然のことである。
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ごつごつした石段の急勾配は崖の険しさに比例している。90bの高低差を一気に登る人は少ない。
頂上への道はほかになく、強風にさらされ手すりにつかまりながら登る。吹き飛ばされたらお陀仏。
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ティンタジェル城を眺望する絶好のロケーションにカフェ(King Arthur’s Bistro Cafe)があって、クリームティーがいける。
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ティンタジェルの旧郵便局。14世紀建造のマナー・ハウスの一部がそのまま残り、
19世紀になって約50年間、手紙収集局として使われたが、修復され郵便記念館となった。
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ボスキャッスルと言いそうだが、ボスカースルと発音し、ティンタジェルの北東6キロに位置する漁村。
この建物、屋根の傾きというか、ひしゃげ具合で古さがわかるというもの。
ジ・オールド・マナー・ハウスなどと名前がすこし立派すぎるようにも思うが、要するにパブ。
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この屋根も歴史を感じさせる程度にひしゃげています。
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ボスカースルのヴァレンジー川河口は潮の干満の差がはげしく、干潮時のボートは干潟の舟、何もできない。
潮がどのあたりまで満ちるかは岸壁を見れば明らか。
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満潮時には大量の海水が流れ込み、漁船はいつでも出航可能。
ボスカースル村は谷間にひっそり佇んでいる。
大西洋に面する入江の谷は切り立っていて漁船は停泊できず、ヴァレンジー川の河口をここまで遡らねばならない。
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このように谷が切り立っていると漁船は停泊どころか接岸さえ危うい。
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このような入江では船舶も接岸できない。
井村君江は自著「コーンウォール」でペンザンスを「海賊の故郷と思っていた」と記しているけれど、
海賊ならペンザンスのような判りやすいところではなく、追っ手をわざと惑わし、逃げ込むために
こういう地形を利用するのではないだろうか。彼らの故郷はペンザンスではなくこんな場所であったろう。
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ボスカースルからB3263を8キロほど北東に行ってA39の交差点を左折、さらに15キロ北北東に進むと
Budeの標識が目に入る。道路標識に従ってA3072を左折すれば2キロも行かないうちに着く。
ビュードのこのあたり、倉庫が川沿いに連なっていれば、どこか小樽に似ている。人口は約3600人だから
小樽(人口は概ね13万人)よりずっと少ないけれど。
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ビュードはコーンウォール州とデヴォン州境の町。幾つかのビーチは入江が狭いせいか、波のすがたが美しい。
コーンウォールはここでお終い。デヴォン州の画像は「Devon 2014」で.。
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