春または秋、スコットランドから南西フランスに移動すれば、光の量の変化に気づく。
南の十分な陽光は栄養となるが、スコットランドの光はきれぎれで、そのほとんどは散ってしまう。
スコットランドはたっぷりとした光を与えてくれなかったけれど、わずかな光はちりぢりに消えて
いってしまったけれど、そこに存在したのは、過剰なるものが温かさを妨げる場所には見いだしえない
馥郁たる人間の香りだった。
過ぎ去ればこの世のことはすべて山間を曲がりくねって吹く風のように、低くたれこめる靄の彼方の弱い光
のように私たちから遠ざかってゆく。しかしその光は、北風の吹き荒れる暗い野に旅人がすくむとき、
雲の絶え間から射してくる月の光にも似て懐かしく、明るく感じるのである。
強い光は閃き、刻印を残すが、弱い光は臆しているかのごとく幽かにほほえむだけである。
にもかかわらず弱い光は、寂寞とした野を、あるいは、深い霧につつまれた森の奥を照らす
日影のようにやさしいのだ。
渇きをいやすのは旅の目的ではない、結果である。旅の目的は大地のめぐみのすべてを享受し、
追憶と発見という果実の収穫のあと思索の種をまくことである。旅は思索を育み、思索は旅を求める。
だが、いつの日か思索する力の失われるときがやってくる。その日まで私たちは、心の風景に辿りつく
ための旅を続けるのである。
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