2019年10月24日      旧聞日本橋と歌舞伎(一)
 
 「旧聞日本橋」の作者・長谷川時雨(1879−1941)は明治から昭和にかけて文筆で生計を立て、多くの女流作家を世におくりだした女性である。坪内逍遙にみとめられたことがきっかけで劇作を手がけ、歌舞伎台本も書いたことから6代目尾上菊五郎とは生涯の友であったという。大正期、「近代美人伝」を著し名を上げた。
 
 昭和3年7月に時雨が主催した文芸誌「女人藝術」の4年4月〜7年5月まで連載されたのが「旧聞日本橋」(当時は「日本橋」)。昭和10年に単行本として上梓されたおり「旧聞日本橋」と改称。
 
 そこかしこで江戸時代の風をなびかせると言ってきた。時雨の文章を読んだのは1994年ごろ、勘九郎(18世中村勘三郎)、八十助(10世坂東三津五郎)が若手花形として歌舞伎を盛り上げていたころで、孝夫(15世片岡仁左衛門)は玉三郎や勘九郎と共演し、歌舞伎座、南座、中座は大賑わいだった。
 
 そのころ勘九郎の話から3世実川延若の芸に興味をもち、、勘九郎の憧憬の的である母方の祖父6代目菊五郎の芸についても知りたいと思った。6代目の伝記を読み終わらないうちに5代目菊五郎、そして3代目と数珠つなぎ。勘九郎の芸風は父勘三郎(17世)とも違い滑稽味が傑出。
 
 勘三郎はコミカルさが目立つように思われがちだが、「髪結新三」のような生世話の存在感は際立っている。大店の娘お熊をかどわかした上に手込めにする悪党の新三は、話を通しにやってきた地元の親分相手に啖呵を切る。1997年5月松竹座(当時は勘九郎)。
「その親分風が気にくわねえんだ。車引きのような小者が迎えにきたのならタダでけえしてやってもいいが、てめえっちにおどかされ、すんなりけえすと思っているのかい」。
 
 しゃがれ声の勘三郎は、口跡はまずまず、せりふ回しがいいので聞き取りやすい。歌舞伎で口跡とせりふ回しがわるいと芝居がつぶれる。
私たちの周囲に「もごもご」語の人がいて、それでもおおよそ何を言いたいのかわかるので流して聞けるが、ドラマは聞き取りにくいとイヤ気がさす。田中裕子は口跡もせりふ回しもわるく時代劇には向かない。
 
 勘三郎の出色なのはテンポとイキと間のよさ。役者の芸はわかっても、芸の秘密などそうたやすくわかるものではない。劇神が宿ったかのごとき芝居の生まれる背景に何があるのか。役者以外の人間は天与の才と思うだろう。が、子ども時代からの朋友坂東三津五郎の言はちがう。
「天才的なところもあるんです。でも基本的には努力の人。人が10回しかやらないことでも60回、70回やる」(2012年12月9日放送「勘三郎追悼」)。
 
 勘三郎が死去した2012年12月5日の4日後に放送された緊急番組であったからか、三津五郎、山川静夫など3名のゲストは沈痛な面持ちだった。そういう重々しさのなかで、数多くの芝居をともにした三津五郎は冷静だった。
生死が分かたれても後先のちがいである。そう遠くない日、自分も旅立つことを予感しているかのような深い静けさだった。それから2年2ヶ月後、三津五郎も旅立った。
 
 役者のコメントも紹介された。藤十郎、幸四郎、吉右衛門とつづいたが感銘というに至らず、次に明るい表情の仁左衛門が楽屋らしき場所で登場した。
「いっちゃったねえ。でもね、あちらへいって、すごい役者がいるんだもの、むこうにね。彼が望んでいた役者が。闘病生活はタイヘン。解き放たれて、あこがれの先輩たちがいるところへいって。むこうへいけば私は後輩になるんですよ。むこうへいったら、にいちゃんって言わんならん」。
 
 生前、勘三郎は仁左衛門をあにきと呼び尊敬していた。共演回数も圧倒的に多かった。「むこうへいけば私は後輩になるんですよ」、「にいちゃんって言わんならん」と言った仁左衛門にこみあげてきた。湿っぽいのは勘三郎も苦手だ。かなしさを語るのは誰しもできる。可笑しいから万感胸にせまるのだ。千両役者が語るとはそういうことである。
 
さて「旧聞日本橋」である。第一章「町の構成」の書き出し、「一応はじめに町の構成を説いておく。鉄道馬車時代の線路は(中略)、小伝馬三丁目、通油町と通旅籠町の間をつらぬいてたてに大門通がある。そこで、アンポンタンと親からなづけられていた、あたしというものが生まれた日本橋通油町というのは、たった一町だけで云々‥」。
 
 時雨のあだ名「アンポンタン」(安本丹)は「江戸時代(18世紀後半)の流行語で、愚か者をののしったことば」ということなのだが、18世紀半ば上方で使われていたらしい。アンポンタン(時雨)の語る筋書きは生き生きしてリアル、うまい役者の芝居をみているようだ。
 
 文章は口語体の江戸弁。市井の民が町を往来し、油を売りながらおしゃべりしている。明治上半期の回想なのに江戸時代に舞いおりた気分。時雨の家の右隣に糸問屋、左側は通りぬけの露地。露地を背にした大門通の幾軒かの家を越すと足袋問屋。大門通側には4軒の金物問屋(「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」と其角がよんだ家並み)。
 
 時雨の祖母は文化生まれで、文化文政の面影をとどめており、身だしなみのわるい女を叱ったらしい。
そういう話のあとに、「夏の夜、川の流れにそっと身をひたすと、山の陰が抱いているように暗いのに、月の光はどこからか洩れてきて、浴びる水がキラリとする。瀬が動くと、クスクス笑うものがあるので、誰と低くきくと、あたしだよと答えるのは姉さん(祖母の姉)で‥、」。
 
 「髪結新三」は、テンコツさん森口嘉造氏に関連する一文として載っている。「そこら一帯の大家さんで、口利きで(中略)、故松助(4代目尾上松助 1843−1928)演じるところの『梅雨小袖』(梅雨小袖昔八丈が髪結新三の狂言名)の白木屋お熊の髪結新三をとっちめる大家さん、カツオはもらってゆくよのタイプ」。
 
 カツオ云々は大家のせりふである。97年5月松竹座で大家をやったのは又五郎(先代)。左団次、富十郎と大家役をみたが最高の大家は又五郎。悪党の上前をはねるごうつく爺さん。すごみはないのに新三をやりこめてしまう。又五郎は背丈152センチの痩身。芸のちからというほかない。さしもの新三もかたなしだった。
 
 「旧聞日本橋」をわくわくしながら読んだのが25年も前とは思えない。再読しても一気読みできるくらいの臨場感に満ちている。体力の低下著しい現在、一気読みはできないとしても。
 
 
                      「髪結新三」 18代目中村勘三郎


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