2019年11月8日      旧聞日本橋と歌舞伎(二)
 
 「旧聞日本橋」は家族、近所の人たちのほか歌舞伎役者についても言及しており、「ちい高」のあだ名で呼ばれた五代目市川小團次(こだんじ 1850−1922)を知り、その父・四代目市川小團次(1812−1866 以下「子団次」)を知った。ちいは小柄、高は屋号の高島屋。
 
 子団次の父・栄蔵は歌舞伎役者とかかわりのない江戸市村座の火縄売りで、花道の脇で客の煙草に火をつける火縄を売るのが本業だが、声番(客の整理係)や雑用もやっていたらしい(永井啓夫「四代市川小團次」)。
市村座は文政元年(1818)〜文政3年ごろ興行不振がつづき、子団次は現在の日本橋から京橋付近にあった魚仲買の丁稚奉公にだされる。母が不祥事をおこさなければ、子団次は魚売りを生業として生涯を終えたかもしれない。
 
 彼の母親は市村座に関係している男(役者ではない)と姦通し、出奔したのである。父がそのことを恥じ、面目ないと伜のいとまごいを乞い、家財を売り払って大坂にでてくる。
父のコネなのかどうか、大坂の市川伊達蔵という役者の弟子となり、米蔵の名をもらって子ども芝居の巡業をはじめる。「見世物雑誌」(名古屋叢書第17巻)によれば、1826年9月1日、子団次は名古屋清寿院の芝居に出ている。当時の興行先は主に伊勢路であった。
 
 前掲「四代市川小團次」によると、「清寿院は名古屋市中区門前町の盛り場に享保年間より幕末まで続いた劇場で、子供芝居から東西劇壇の人気俳優まで、各種の芝居を興行していた。ここの観客は目の肥えていることでも知られており‥云々」。
 
 文政10年(1827)栄蔵は不遇のうちに大坂で死去。人生はわからないものである。その3年後「米十郎」と改名、金沢の芝居や大坂の芝居に出るなど方々で活躍し、四代市川子団次を襲名したのは天保15年(1844)。
襲名のきっかけとなったのは市川海老蔵(1791−1859 七代目団十郎)が天保の改革のあおりを食らって江戸市中所払いとなり、大坂へのぼってきたことによる。海老蔵との「角の芝居」の共演で腕をみこまれたのだろう。
 
 子団次が得意とした狂言で現在も再演されるものを紹介する。
「天下茶屋」(「敵討天下茶屋聚」 かたきうちてんがぢゃやむら 1854初演)、舞踊「流星」(清元「夜這星」 1859)、「三人吉三」(さんにんきちさ 1860)、「十六夜清心」(1858)。「雪暮夜入谷畦道」(ゆきのゆうべいりやのあぜみち=直次郎と三千歳)は「十六夜清心」とともに清元の名曲であるが、明治14年(1881)の作品。
 
 子団次が35歳(1847)で娶った二番目の妻は初代中村歌六(大坂三井家・番頭の子)の次女、五代目子団次の母となるが、6年後(1853)に離縁している。
初代歌六は名女形として大坂、京、江戸で人気を博した。その三男の三代目歌六は17代目中村勘三郎の実父、歌六60歳にして芝居茶屋あるいは常磐津師匠の女(満19歳)とのあいだにもうけたのが後の17代目勘三郎。
 
 18代目勘三郎と子団次に特段の脈略があるわけのものではなく、お互い得意とする狂言が敵討ものや生世話ものという点で一致する。「天下茶屋」の安達元右衛門の滑稽と残酷をそなえる悪党は勘三郎の手のうち。子団次が元右衛門を初演したのは安政6年(1860)4月だった。
雪暮夜入谷畦道はしかし仁左衛門の直次郎、玉三郎の三千歳が秀逸。生世話とはおもむきの異なる十六夜清心も孝玉コンビ(仁左衛門襲名前は片岡孝夫)が決まっている。
 
 「旧日本橋と歌舞伎(一)」で取りあげた「髪結新三」も、「十六夜清心」、「三人吉左」や「白浪五人男」の作者は二代目河竹新七(黙阿弥 1816−1893)。黙阿弥の特長は七五調のセリフの小気味よさ。
渡辺保著「黙阿弥の明治維新」に、「狂言作者としての黙阿弥の前半生は子団次なくしては到底存在しえなかった」と記され、また、子団次の三度目の妻お琴に黙阿弥が、「私がこれだけの作者になったのは、子団次さんの余徳に負ふ所が少なくない」と言ったそうだ。
 
 七五調で有名なのは幾つもあるけれど、「三人吉三」のお嬢吉三の「月もおぼろに白魚の、かがりもかすむ春の空、冷てえ風もほろ酔いに、心持ちよくうかうかと、浮かれカラスのただ一羽、ねぐらに帰る川端で、さおのしずくか濡れ手で粟、思いがけなく手に入る」は歌舞伎をみない人でも聞いたことはあるかもしれない。役者なら言ってみたいせりふである。
 
 「髪結新三」の18代目勘三郎の「ちょうどところも寺町に、娑婆と冥途のわかれ道、その身の罪も深川に、橋の名さえ閻魔堂、」も名せりふ。若い娘をかどわかし、てごめにする悪党。
凄みのある勘三郎の新三を憎めないのは、ただうまいというだけではなく、客席にいると初夏の風を感じるからだ。当時、初もののかつおは高かった。天秤棒の魚売りから買い、新三に用があって訪ねてきた大家にかつおを半分やったものの、「かつおは半分もらったよ」と大家に身代金の半分を取られてしまう新三。
 
 大家は天敵。新三をやる勘三郎が傑出していても、大家の出来がよくないと芝居にならず、先代又五郎や富十郎は新三を出し抜き上前をはねる格と可笑し味をもっていた。
 
 「役者論語(やくしゃばなし 1776年刊の芸談集))」に、初代坂田藤十郎の「われを手本にせば、われより劣りぬ」ということばが載っている。芸は工夫すべきものであり、工夫して自分を出すことが肝要という意。藤十郎は「身ぶりは心の余りにして」ともいっている。
 
 初代市川団十郎が共に舞台に立ちたくない(役者が何枚も上)と話したという稀代の名優坂田藤十郎は京・大坂の役者。近松は藤十郎にむけて台本を書いた。
18代目勘三郎の死(2012年12月5日)の4日後放送されたテレビ番組で仁左衛門が言った「あちらへいって、すごい役者がいるんだもの。彼が望んでいた役者が」のなかに六代目(勘三郎の祖父)や15代目市村羽左衛門などは入っていたろうけれど、市川子団次や坂田藤十郎がふくまれていたかどうかわからない。
 
 しかしそれでも、育ちや来歴はまったく異なっても芸風の似ているであろう子団次の存在をはずせないように思うのだ。芸は型だけで成り立つものではない、時代をこえて芸神と研鑽のおもむくところに役者の受け継ぐ何かが在るだろう。
 
 「夏祭浪花鑑」(なつまつりなにわかがみ)の団七は勘三郎の当たり役のひとつである。が、お辰も傑出している。一寸徳兵衛の女房お辰は、美しい顔に焼けた鉄弓(てつきゅう)をあてて頬を焼く。うちの人はここに惚れたんじゃない、ここに惚れたんだと胸をぽんとたたく。勘三郎曰く、これには「あそこ(秘所)に惚れたんだというハラでやれという口伝がある」らしい。
 
 「旧聞日本橋」に、「子どもというものは、ふとした時にきいたことを生涯忘れぬものである。或る酒のみの壮士が、あたしがほおずきをふくんでいるのを見て、たった一言激しくたしなめたことがある。それからプッツリほおずきを鳴らさない」と記されている。
 
 勘三郎最後の舞台となったのは2012年7月18日松本市。定式幕ではなく緞帳で、カーテンコールもあり、「必ずまた松本に帰ってきます」と観客に言った。食道がん手術の9日前のことである。舞台の6日後、仲間とゴルフをするほどの体力があった。手術しないで4、5年生きるか、声を失うリスク覚悟で手術をうけるかなどとつぶやいていた。術後病魔との奮闘およばず、5ヶ月足らずで旅立ってしまった。
 
 勘三郎の死の翌年2月(2013)団十郎が、そして2015年2月三津五郎が永眠した。2年2ヶ月のあいだに歌舞伎を背負って客をわかせた役者があいついでいなくなった。江戸期以降そういう例は何度かあったとしても愕然とした。
 
 峠をこえたと人はいう。病にはこえられる峠とこえられない峠があって、重病者は予感しつつ、こえることのない峠を歩くのだ。比喩ではない、それも人生である。なんの脈絡もないのに遠い記憶がよみがえる。

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