2019年11月20日      時代劇ではないのですが(二)
 
 11月に入ってばったり、評にかかる時代劇が放送されなくなり、12月もそういう状況がつづく。新作時代劇ドラマの「赤ひげ2」はレギュラー出演者がまずまずの芝居をやっており一定の水準に達しているけれど、毎回のゲスト、展開はあえて評するほどでもなく、ゲストも展開も秀逸でレギュラー陣との呼吸がぴったり合えば寸評したい。
 
 11月14日、再放送「父の詫び状」をみた。1986年初放送時の杉浦直樹と沢村貞子が適役という印象が残っており、細部はおぼえておらず、向田邦子の随筆集(タイトル「父の詫び状」)の短編数編を組み合わせてドラマ化するという手法がおもしろい。
向田邦子の随筆に登場するのは有名人ではなく家族や無名の人。それゆえに読者、視聴者が親近感、臨場感をもち、しかも、うっかり見過ごしがちな、もしくは忘れてしまった瞬間を再現し、心の風景を想起させる。有名人は型通りというか、ありきたりの体験談ばかり、座談は打ち合わせ通りでちっともおもしろくない。当人やテレビ関係者には傑作かもしれないが、他者にとっては駄作。
 
 有名人は有名であるがゆえにひとりよがりの傾向がつよく、無名時代の謙虚、虚心をどこかに置き忘れている。まわりは調子をあわせ、くだらない話をされてもウケるふりをする。ちょっと考えればわかりそうなものなのに、初心にかえることができなくなっているのだ。
向田邦子が一風かわっているのは、売れっ子になっても無名を貫きたかったということである。自分を律してゆくという意識が有名人面を嫌い、自戒の念をコントロールした。傲るな、高ぶるなと。それでも庶民的気質は隠せず好感をもたれた。
 
 ドラマ「父の詫び状」をみた人もいるだろうからドラマには出てこない随筆「父の詫び状」のなかの文言を列挙する。
向田邦子の祖父は志ん生(5代目 1890−1973)の落語が大好きで、「毎日ホールで志ん生の落語の会があるのを知り、早速手に入れ祖父に進呈した。まだ東京のあちこちに焼けあとが残っていた頃のはなしである。(中略)夜遅く祖父は帰ってきたが、ひとことも口を利かないのである」。
 
 「(中略)どうも様子がおかしいので問いつめると、祖父は読売ホールでヴァイオリンの独奏を聞いてきたらしい。有楽町で道に迷い、通行人に切符を示してたずねたところ、毎日ホールと読売ホールを間違えて教えられたと判った。『』髪を長く垂らした女が、親の仇討みてえな顔でやってンだ。途中で出られるかい。」
 
 お次は母親の話。「私は妹をお供につけて母に五泊六日の香港旅行に行ってもらった。死んだお父さんに怒られるとか冥利が悪いと抵抗したが、もともとおいしいものが好きで、年にしては好奇心も旺盛な人だから、追い出してしまえばあとは喜ぶと判っていたので、けんか腰の出発だった。
 
 空港で母、妹に係官が『ナイフとか危険なものは入っていませんね』とたずねる。母はごく当たり前の声で、『いいえ持っております』といい、大型の裁ちばさみを出した。
『1週間ですから爪が伸びるといけないと思いまして』。係官は笑いながらどうぞといってくだすったが、『出がけに気づいたんだけど、爪切り探すのも気ぜわしいと思って』。言いわけしながら『お父さん生きてたら、叱られたねえ』としょんぼりしている。」
 
 「少し可哀そうになったので、花屋へゆき、蘭のコサージを作ってもらった。3千円を2千5百円に値切り、母に手渡すと今度はえらい見幕で怒るのである。『何様じゃあるまいし、お前はどうしてこんな勿体ないお金の使い方するの』。あげくの果ては返しておいでよ、と母子げんかになってしまった。」 名もなき人のおもしろきかな。
 
 
 「向田邦子をめぐる17の物語」で和田勉が向田邦子について語っている。有吉佐和子作、向田邦子脚本、和田勉演出の「針女」のワンシーン。
夫の出征前夜、夫婦で酒を飲み、夜中に喉が渇いた女が水を飲みに台所へいく。女はそのときツメの匂いをかぐ。和田勉が向田邦子に「なぜツメの匂いをかぐのか」と聞いたところ、「男女に肉体関係の証である匂いはツメに残るものよ」とこたえたという。指先と言うよりツメのほうが穏当なのかもしれない。
 
 上記「17の物語」で元TBSプロデューサー政田一喜は、「せっかちで、おっちょこちょいで、早とちりでしたね。食べものや食器への好奇心は大変なものでした。東名高速が開通したときなど、いきなり京都まで行こうと言って、車で出かけたこともあります。そういうところが彼女の大きな魅力となっていたのではないでしょうか」と語る。
 
 向田邦子は偉ぶらず、気取らず、記憶力抜群、生真面目な人だった。航空機事故で亡くなったけれど、欲はいわない、せめて70まで生きて、50半ばでひょんなことがきっかけとなり、彼女の性質に合う人情時代劇の脚本を書きはじめていればどれほどよかっただろうと、逝去から38年たったいまでも思うのだ。

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