2019年12月12日      京都、そして赤ひげ

 
 テレビドラマ「赤ひげ2」が6回目でおもしろくなった。時代劇「赤ひげ」は山本周五郎作品のなかでは一風変わっていて、単なる人情時代劇ではなく、奇怪譚の要素がまじっており、そこに妙味がある。ドラマが原作と異なる演出をするのは当然として、事件性があってミステリーがかっているから引きこまれる。
 
 11月20日「時代劇ではないのですが(二)」冒頭に記したけれども、「赤ひげ2」は第5回目まではレギュラー陣のよさに較べてゲストがたいしたことはなく、評にかけるほどのものではなかった。12月6日放送の第6回「わたくしです物語」で俄然おもしろくなった。
5回目まではゲストがやる気満々で浮き足立っていた。6回目ゲストの谷村美月が落ち着いてハラで芝居しており、レギュラーともうまく噛みあっていた。脚本、演出もよく、赤ひげ(船越英一郎)の小石川養生所の若い医師保本と津川(中村蒼と前田公輝)、今回主役の立場鈴木康介がいつもどおりの芝居をやっていた。
 
 赤ひげとメシを食っているシーンは毎回おもしろく、なにがおもしろいといえば津川(前田公輝)のせりふと仏頂面がおもしろい。そして話にクチをはさむ医師見習い田山(鈴木康介)のおかしみのある芝居もいい。わざとらしさがなく自然で、目立とうとしないからだ。共演者を向こうに回し、目立つ芝居をやればクサくなるというこを知っているのだろう。
 
 特に津川が何を言うのか、おおむね同じような顔をするのであるが、その顔に味がある。そうこなくては。メシのシーンに出てくるのは住み込みではたらく中年女お常(山野海)と若い女お雪(真凜)。お雪は倉本聰脚本、小林桂樹主演のテレビドラマ「赤ひげ」で紅景子が演じた役である。
 
 真凜のお雪はうまい。喜劇ができる役者だからといってかならずしもうまいと限らず、コメディだけうまいという場合もある。真凜のほかの役を見ていないので「赤ひげ」にかぎっていうと、表情、しぐさ、せりふ回しが傑作。下働きを地でやっているのではないかと思わせる。
住み込みの女ふたりが突っ込み、珍客の谷村美月が引く。そのテンポと間がよく、滑稽なのだ。武家の娘(谷村)は思いの外料理が得意。津川が台所で味見する。養生所へ患者としてやってきた元遊女およね(佐津川愛美)は性格がひねくれており、随所で茶々を入れる。30年前、ひねくれ役でこれはと思ったのは伊佐山ひろ子。佐津川愛美はこれから。
 
 重箱のすみをつつくようにスジが通っていないとか、メリハリがどうとか言う人間もいようけれど、自分の実人生でそうすればよいことであって、スジを通したくてもできない事情のある人々の悲哀あらばこそ共感を得るのだ。
サイコロ二つ振って常にピンぞろは出ない。人生はピンぞろどころか、ぞろ目も出ない日々がつづく。そうであってもどこかでメリハリはあり、ドラマにもそれなりのメリハリはある。それに気づくのは人それぞれの経験と感性である。
 
 タテマエをまくし立てられて感動する人間はいるのだろうか。ああせい、こうせいと説教されて言うとおりにする人間は少ない。自分で気づかなければなかなか。赤ひげはそれとなく気づかせる。
説諭するのではない、そうみせかけて情理を尽くすのである。情理を尽くすから相手は気づく。相手が気づかなければドラマは成り立たない。赤ひげがステキなのは事なかれ主義と真逆の姿勢を貫いているからで、事態は良くもわるくも進展する。ドラマの最後に流れる音楽もいい。
 
 江戸の話はおしまいにして京都である。「京都人の密かな愉しみ」2015年1月放送「桐タンスの恋文」の学生役だった谷村美月、「私の大黒さん」で泉涌寺塔頭・雲龍院住職の妻をやった丘みつ子、2016年3月放送「えっちゃん」の子連れ出戻りをやった戸田菜穂は時代劇でもうまいところをみせる。
丘みつ子と戸田菜穂は若いころから芝居になっていた。戸田菜穂の最新作時代劇は「怪談牡丹燈籠」。丘みつ子は「赤ひげ」の保本(中村蒼)の母親役。丘みつ子はたまにしか出てこない。もったいない。
 
 佐津川愛美も「京都人の密かな愉しみ」2017年5月放送「逢瀬の桜」に出ていた。桜の絵皿3枚のうち、消えた1枚をネットオークションで売る娘役。「赤ひげ2」の元遊女役はまだ荒削りのところもあるが、自分でも手応えを感じているのだろう。適役、脚本、共演者にめぐまれ役者は成長する。そこで本領を発揮せず、いつ発揮するのか。
 
 「京都人の密かな愉しみ」は洛志社大学文化人類学教授エドワード・ヒースロー役団時烽フ軽妙洒脱、老舗和菓子店若女将役常盤貴子の着物と芝居、そして長年京都で商いしている豆腐屋とか竹ぼうき製造小売りなど小さく庶民的な店がいいようもなく魅力的。
 
 ヒースロー曰く、「京都人はわからない」。わからないのは人間だけではない、京都は不思議の国である。50年かけて知り得たのはほんの一部、だからといって貪り食らいたいとも思わないのが京都。
おこしやす、おおきに、さいならの国は欲望の対象とならず、偏愛を感じることもない。訪れたいと欲さずとも、そのうち気持ちが向く。40年連れ添った伴侶のようなところもあるけれど、それが人生最良の選択かどうかはわからず、別れた愛人のようでもある。結局、京都はわからない。
 
 「京都人の密かな愉しみ」に出てきた青蓮院、将軍塚、京都植物園、雲龍院、千本釈迦堂、法勝寺跡、六角堂、下鴨神社、糺の森、三千院、御霊神社、梨木神社、鹿王院、本満寺、そして無名の小さな寺や背割堤(八幡市)の桜。紅葉、桜、新緑に目を奪われ、冬の佇まいにしゃきっとする。
団時烽フナレーションも番組にマッチしている。赤ひげとヒースローの共通点はダンディ、庶民性。高僧、藤原氏分家、茶道華道家などは陳腐で退屈、ありきたりのことしか言わない。彼らを知るならインターネット、書籍で事足りる。
 
 その点2017年9月にはじまった「京都人の密かな愉しみ Blue 修行中」シリーズはつまらない。脚本、演出、キャスティング、音楽、どれをとっても見劣りする。高岡早紀も出ているが、前作「逢瀬の桜」のせりふなしの駆け落ち妻を一瞬々々生きる芝居がよかっただけに惜しまれる。
高岡早紀の芝居よりよかったのは、死神に取り憑かれ息子に看取られる益岡徹の表情。「逢瀬の桜」のロケーションは見事で、特に右京区京北周山町山キハの「魚ヶ渕吊り橋」の桜が印象に残った。
 
 新作のスタッフは前作のロケ地、音楽、BGMのすばらしさを忘れたのか。ドラマも説明的で芝居になっておらず興ざめ。たまに団時烽ゲストとして出演させているが、生涯の当たり役の前作だからよかったのだ。
冷やかしみたいにちょっとだけなら出さないほうがまし。若手だけではかっこうがつかないから出すのか、前作のファンを慮ってからか、米国映画シリーズものの焼き直しじゃあるまいし。
 
 巷間にあふれるさまざまな流行の仕掛け人紹介といって、その実メディアが仕掛け人となって流行を演出し、流行に乗り遅れたくないと思っている若者や地方の一部が乗る。あるいは故実の行事に関係者を出演させ駄作をつくる。ヘタな三文芝居でお茶を濁す。疑似体験としても度が過ぎる。
 
 どんな人生を送っても、いまよりはマシと思っている男の苦悩、もしくは女の悲哀が展開するドラマは身にしみる。どん底にいるとどん底を見ようとしない。どん底経験のないメディアが目をこらせば見えるだろうに。
 
 病に伏せっても、過去、闘病の日々より健康な日々の割合が多かったなら、人は危険など忘れたふりをして日々生活を繰りかえす。悪化の一途をたどる疾病も、深く切り刻まれた心の傷口も、治らないまま時間が経過する。ふだんやっていることを、可能なかぎりふだんどおりやろうと思うしかない。秀逸なドラマをみれば癒やされることもあり、いっときでも過酷な現実を忘れることもある。
 
 遠い記憶、古き良き時代はますます遠ざかってゆく。
 
           画像は冬の東福寺「通天橋」です

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