2019年12月18日      時代劇にみる人生
 
 江戸なら「まけておくれでないかい」と長屋のおかみさんは言う。上方なら「まけといてんか」。いつごろからムダなものを大量に生産しはじめたのだろう。職人が生活に必要なものだけつくっていた時代は、庶民からみれば贅沢品でも富裕層にはムダどころか必需品、そういう品々を生産する職人の暮らしもあった。
 
 昭和30年代初めは売りさばくわけでもないのに生活用品を手作業でつくる人もいた。現に私の祖父がそうだった。ハエたたき、提灯、障子、ニワトリ小屋、引き出しつきの木箱、各種棚、テレビ台など。
19世紀、英国で機械を用いる大量生産がはじまって国民生活が大きく変化したように、20世紀日本でも機械化によって国民生活が変わり、電気、ガスはもちろん流通機構も飛躍的な発展を遂げた。元にもどせないのは誰しもわかっている。
 
 50年以上前から言われていることだが、工業や経済の急成長は冷ややかな人間の増産に寄与したようにみえる。20年前からその傾向が顕著になってきたにはインターネットの普及による。知識と情報を得て体験したつもりになる。それでどうなるかというと、冷ややか、もしくは生意気、あるいは両方を併せもつ人間が増産される。
 
 戦後間もないころ、弱者が圧倒的に貧しかったころであれば国民のほとんどが弱者救済に賛同しても、経済的に豊かな人々が多くなってみればどうなのだろう。災害がおきたときの寄付やボランティア活動に一抹の慰めをみるけれど、全般の動向は不明。
 
 特別な人だけではなくふつうの人でも、どこかで本領を発揮したいとか役に立ちたいとか思っている。しかしなかなかチャンスにも場所にもめぐまれない。仕事のなかで人助けに役立っていると感じる職種、分野は少ない。熟練していなくても役に立つなら役に立ちたい。そう思うのは人情である。わかりきったことだが、寄付もボランティアも人情の発露だ。
 
 「赤ひげ2」第7回目「育ての親」(2019年12月13日放送)の一場面。およね(佐津川愛美)のせりふ。
「この子がいるようになってから目がさめるとき、一日がはじまるのがうれしくてしかたないんだよ。夜眠るときだって、あしたが来るのがたのしみでしかたないんだ。この子がいなくなったらみんななくなってしまう」。
 
 赤ひげは言う。「田山(鈴木康介)は、手紙ひとつで(赤ん坊を)置き去りにする父親は信じられない、だから番所へ届けでようと言った。しかしおまえは、父親はかならず迎えにくる、それまであたしが面倒をみると言った。信じたおまえが正しかった。おまえのおかげで鶴之助(赤ん坊)は父親のもとにもどれる」。
 
 場面が変わり、およねが赤ん坊につぶやく。「なんだい、気持ちよさそうに。あんた、のんきなもんだよ」。第1回目からドラマをみていない人にも、およねの人生が浮かびあがるだろう。「ここへ来てすっかり変わっちまったんだよ。あんたといられてたのしかったよ」。
 
 「あしたがくるのがたのしみ」という日々は昔あった。あした買物にいくわけでもない、旅行にでるわけでも、デートするわけでもない。だがあしたを信じることができたような気がする。
最後の旅になると思って出るのだが、それでも、最後の旅に出たいと思っても出られない人に較べれば‥。最近思うのは、旅立ちはお迎えが来て冥途へ旅立つくらいなもので、浮き浮き気分になりようもない。
 
 あしたを待ち望むのは若さだ、健康な身体だ。重篤な病もなく、体力も温存していて、そのほかの環境も整っているからだ。身体がへこたれてゆくと心もへこたれてゆく。病は身体と心を壊し、薬の副作用が身体をむしばむ。それがわかっているからできるだけ日常をふだんどおり過ごしていこうとする。
昔、母の知り合いが、「60代と70代では全然ちがいますよ。70を過ぎると坂道を転がり落ちるようになります」と言った。実感である。身体がいうことをきかなくなるとか、身の回りの状況によって行動が制限されると旅もへちまもない。
 
 ごく最近、土にかえっていくような感覚がある。土になる前、一瞬真っ暗闇になるのを感じるが、その先は意識がなくなるので土になったのかどうかはわからない。全身麻酔経験のある人なら、瞬時に意識を失い、意識のもどる直前の一瞬の闇がわかるかもしれない。闇は何なのだろう。死の直前の闇は母親のおなかの中だろうか。
 
 生まれる前も死ぬ前も無味無臭。湿っていないし乾いてもいない。濁ってもいない、澄んでもいない。空気や人生の乾湿、清濁は存命中の話である。五感がまともに機能している。
何が在って、何がないのか、はっきりわかる人間はしあわせというべきかもしれない。思い出さえも喪失し、記憶も残らなければ何が残るのか。余韻が残るのだろう。
 
 感動は長続きしない。だが思い出してよみがえる感動はある。旅で出会った風景に感動したり、ドラマに感動して思い出す懐かしい人々。瞬時によみがえる感動は、亡くなった家族が何のまえぶれもなく一瞬にしてあらわれるのと似ており、余分な着色のない原寸大の感動である。
 
 何百回の死と再生をくりかえしてきた古都、自分が生きてきた時代より古い時の流れを感じる夜の京都御所。庶民とあまり縁のなかったであろう貴族の生活。いや、戦禍や災害などで困窮したこともあった。ふだんがふだんな日々であれば困窮時はいっそうこたえるだろう、耐性のある庶民と較べれば。
 
 冬だというのに近衛邸跡のしだれ桜が北風に吹かれて飛んでいる。御所の外壁前は落花狼藉。寺の受付をやっていた若い女が、パンストのふくらはぎあたりが破れて座りこんでいる。50年前に見た光景。
現実か非現実か、幻想的かそうでないかは問わない、色気はあっても情緒と笑いがあり、経済的にめぐまれているわけでもないのに明るく清々しく、心安まる人々を描いた時代劇。いつかどこかで。
 


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