2020年1月23日      京都再発見
 
 2017年8月4日放送「京都人の密かな愉しみ 桜散る」でエドワード・ヒースロー(団時焉jが老舗和菓子店の前を歩いていると、和菓子店女将(銀粉蝶)がのれんをくぐって出てくる。「まあ、先生」、「女将」と久しぶりの再会に女将はヒースローを店内へ招く。ここからが団時焉A銀粉蝶の真骨頂。
 
 ヒースローが手にしている短冊をみて女将が言う。「なんどすの、それ」。そこには「花は根に鳥は古巣に帰るなり 春のとまりを知る人ぞなき」と筆書きされている。そのシーンの前、ヨークシャーから彼を追って京都へ来た女エミリーが短冊に書き残した歌で、表に「たち別れ いなばの山の峰に生ふる まつとし聞かば 今帰りこむ」、「裏を見よ」とある。
 
 ヒースローが、「春はどこへ行ってしまったのやら」と言い、女将は「ここどすがな」とこたえる。互いの間、せりふまわし、顔が傑作。エミリー(シャーロット・ケイト・フォックス)は心のありようを「春のとまりを知る人ぞなき」の歌句に托した。
若女将(常盤貴子)が和菓子を買いに来たエミリーに言うセリフは、その言葉でエミリーが京都に残ることを決意したとも思えるステキなせりふ(再放送、もしくはオンデマンドでご覧ください)。そういうやりとりがあって「ここどすがな」なのである。英国女は和菓子店の2階に引っ越したのだ。
 
 英国女はヒースローに「ごきんとはんで」と言う。ハテナ顔の彼に、ごきんとはんは「対等で貸し借りのないつきあいということですわ。先生(京都暮らし10年)も長う住んではるわりにはなかなか京都人になりきりはらしまへんな」と女将が言う。「ほんとうに京都人はわからない」とヒースローは独白。女将の素っ気なさがドラマをにぎやかにする。短い場面におかしさがこぼれ落ちる。
 
 京都。平安京の昔からほかのどこよりも時代の変遷をみつづけてきた町。盆地はほかにもさまざまあるけれど、京都盆地ほどドラマティックなところはない。気持ちが滅入っていても京都に行けば晴れやかな気分になる。
 
 桜。何百回かの死と再生を繰り返してきた美しい亡霊。花見を追懐し亡霊だと思うのは京都の桜だけである。皓々たる満月を見て瞬時に思い出すのは子どものころ見た冬の満月だ。月はこんなにも美しいのかと思った。京都の桜は冬の満月に似ている。
 
 2015年1月3日放送の第1回「京都人の密かな愉しみ」に出てきた将軍塚青龍殿、青蓮院、雨宝院、雲龍院、鹿王院など。それぞれの登場のしかたも見事だったし、各シーンを彩る役者、脚本、演出、音楽がすばらしかった。青龍殿大舞台は2014年10月に完成し、同年は未公開だったけれど、いち早くテレビに出てきた。
 
 大舞台を歩くヒースローの清々しく満ち足りた表情もよかった。大舞台の所有者・青蓮院門主への紹介者・古美術商(佐川満男)の芝居もさまになっていた。「あそこで日の出を‥そらまたみやびなことですな」とイヤミなところを品で隠し、隠しきれず露呈する。
 
 ストーリーを急がせてはならない。とかく単発ドラマは筋運びを急ぎすぎて、役を掘り下げること浅く、芝居が平面的でつまらない。登場人物の出演シーンを増やして立体的になるわけではない。場面の角々が単調に走らない工夫と、役者のしどころをうまいぐあいに脚本、演出に乗せることで全体の出来不出来が決まる。
大事なことはまだある。役柄の向き不向きを推しはかってキャスティングすること。12代目市川團十郎は「助六」に向いていても「封印切」の忠兵衛には向いていない。団時烽フコミカルな味に注目し、ヒースロー役に抜擢した脚本&演出家の源孝志はさすがである。
 
 追う女、逃げる男。逃げる理由をくだくだ説明するのは興ざめ。三十六計逃げるにしかず。問題は逃げた後。そこが陳腐ではドラマにならない。
若女将の腹違いの弟・雲水(深水元基)とヒースローの再会と同道、宇治の寺で若女将や女将とつながるシーンも滑稽。常盤貴子の突然の訪問に驚いたヒースローの背中のじゃがいもが庫裏にころがり落ちる。常盤貴子も生涯の当たり役。役柄は異なっても、京女をハラで演じてこれほどと思ったのは京マチ子以来。着物と帯、着こなしを見るだけでも値打ちがある。
 
 花脊で育った料理研究家は賑やかすぎてやかましい。ヒースローが豆腐を平安京の碁盤の目に切ったり、ぶり大根をつくって食べたり、じゃがいもをむいたり煮る場面がおもしろいのは、講釈をいわず静かであるからだ。食べるときもキンキン声をあげ、のべつまくなしにしゃべられたら、ド派手な祇園祭を見せられたようで料理の味がわからなくなってしまう。
 
 必要な時に必要な人がいればよい。静寂は金百貫に値する。必要な人がいなくなって初めてありがたさを知るのは経験が足りないからだ。もしくは期待値が経験を上回っているからだ。期待値ではなく経験値によって判断すべきことを、静寂のなか独りで考えればわかることを、同じことをくり返す日々にまぎれて忘れているからだ。
 
 静けさの再発見は2018年5月13日、深夜の京都御所である。篠突く雨の午後3時、北野天満宮境内の水たまりに足をとられつつ見学した御土居の青もみじはひときわあざやかで、朱塗りの欄干が緑をひきたてる。そして夜、河原町通指物町の料理屋で会食し、二条通に面したホテルのバーでいっぱいやった男3名は宿の帰路、寺町御門から京都御所に入り、御所の南と西を迂回して蛤御門へ向かった。
 
 午後8時〜9時台の御所は伴侶と共に何度も見ているが、午前零時を過ぎたのは初めて。深夜の模様は「書き句け庫」2018年5月17日「語らいの座 2018年初夏」に記した。
都会から静寂が消えて久しい。深夜の御所は静寂が聞こえる。40代半ばから他人のことばも他人の思惑も捨てて自分の声を探してきた者が聞く静寂。
 
 「京都人の密かな愉しみ」は21世紀が舞台なのに、ある意味安土桃山期を想起させる。役者に古き良き時代のハラがあるのかもしれず、京都に遠い記憶をよみがえらせる魅力があるのだろう。すぐれたドラマ、深夜の京都御所、将軍塚青龍殿大舞台。70代の下り坂の途上、思いもかけず京都は多様な一面をみせている。
 
           将軍塚 青龍殿 大舞台 2020年1月10日


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