2020年2月16日      事代主神(一) 
 
 事代主神は「ことしろぬしのかみ」と読み、「古事記」の国譲り後編に大国主神が「我子・八重言代主神」と申して登場する。島根県松江市の美保神社に祀られているご祭神である。
 
 時代劇とどういう関係があるのかというと、歌舞伎の演目と関連性が高く、スーパー歌舞伎では「ヤマトタケル」、「オオクニヌシ」といった古事記の登場人物を主人公とする狂言もある。
1980年代終盤、古事記の勉強会を主催したとき感じたのは、日本の冒険活劇物語のルーツは古事記ではないかということだった。スサノオ、オオクニヌシ、ヤマトタケルはうってつけのヒーローだ。
 
 古事記は平安時代に貴族のあいだで読まれたという。その後、近衛家の一部で読まれつづけたことをのぞけば遠ざけられ、復活したのは江戸中期。荷田春満(かだのあずままろ)、賀茂真淵、本居宣長が古事記を世に広めたのがきっかけであるが、特に本居宣長の長年の研究成果に負うところ大であるというのが定評となっており、多くの著作のなかでも「古事記伝」は圧巻。
 
 平成元年(1989)、「本居宣長全集」(筑摩書房)の「古事記伝」全巻を購入したのは、勉強会のためだけではなく、月刊誌「新潮」に連載されていた小林秀雄の「本居宣長」を1969年から1975年にかけて耽読していたからだ。
宣長を知るには古事記伝を読破しなければならない、そう思って、国会図書館で原文をコピーして読もうとしても、読むこと自体むずかしい。原文は漢文なのである。在京時、いつかそのうちと思いつつ雑事と遊びにかまけて時間が過ぎていった。
 
 後になってわかったのだが、「本居宣長全集」はすでに(1968年ごろ?)筑摩書房から順次発刊されていた。本文は原文としても、解説付の古事記伝を読むことができたのに、ロクに調べもしなかったのだ。中途半端な探究心しか持っていないと自ら証明しているようなものである。1989年に買った全集は初版第7刷。
 
 古事記に関しては1984年半ば〜1989年にかけて、西郷信綱著「古事記注釈」全四巻(平凡社)が刊行されたので全巻購入し読みあさる一方、宣長の古事記伝が筑摩から出版されて積年の怠慢が晴れるような気がした。
 
 古事記を読んで最も引っかかったのはコトシロヌシのところで、オオクニヌシが自分で言わず子のコトシロヌシに「かしこし、この国は天つ神の御子に奉らむ」と言わせ、コトシロヌシが、「船を踏み傾けて、天の逆手を青柴垣(あおふしがき)に打ち成して、隠りき」というくだりである。
なぜオオクニヌシは息子のコトシロヌシに言わせたのか。コトシロヌシが船を傾けて入水したのはなぜか。天の逆手とは何か。青柴垣とは何のことか、何かの象徴なのか。疑問が次々にわいてアタマをかけめぐった。
 
 オオクニヌシのことばはそれだけではすまない。コトシロヌシが自死したあと、自分の住処は「底つ岩根に宮柱太知り、高天原の氷木高く知り治めたまはば、僕(あ)は百たらず八十隈手(やそくまで)に隠りてさもらひむ」などと煮え切らないことをクチにし、住処の保障をもとめて隠棲する。
子を犠牲にして自分だけ生き残るということを古事記は露骨に語っているのだ。八十隈手に隠れるの意は、何重にも仕切られた彼方、みなの目に見えない場所に隠れるということなのだが、これですぐさま出雲大社に祀られたというわけのものでもない。
 
 「古事記伝」十一之巻の解説によると、宣長はコトシロヌシのシロがシルの名詞形の古形で、シルは領有の義、すみずみまで自分のものとする意が原義であるとし、コトシロヌシとは託宣の言・事を支配左右する主の神の意とみなす。
 
 そのうち講釈の羅列に欠伸が出はじめた。ほとんどの学者は先学の足跡を追って同じ轍を踏んでいた。類は友を呼ぶ。研究室や自宅の書斎で戦前の学説考察に明け暮れていては埒があかない。
出雲へ行ったとしても大社見学くらいなもので、美保神社に赴いたり、青柴垣の神事を見たりはしておらず、まして昔の名残をとどめる片田舎とか河川域、山岳をつぶさに探訪してはいないだろう。その結果、血のかよった古代人の興亡に思いをはせなかったのではないか。
 
 西郷信綱「古事記注釈」は独自の視点で解釈しており、逐一紹介したいが長々しいので割愛する。オオクニヌシのもうひとりの子タケミナカタが登場(日本書紀にその名は出てこない)し、天つ神タケミカヅチと力較べをして敗れ、諏訪湖へ逃げたあげく服従を誓うのだが、いかにも大和政権への国譲り物語である。
 
 津田左右吉は「日本古典の研究」にタケミナカタはあとで付け加えたのだろうと記し、書紀に名が出ていないことから有力説となってはいる。
が、「人はこともなげに後人の追加とか潤色とかいうが(中略)、伝承は絶えず手直ししながら自らを生成するのであって、皮をはいでゆけばおのずと原型に到達できるとする法をはみ出す概念が要り(中略)、むしろ歴史的経験を抽象し、国譲りを理念化するという形で、書紀はタケミナカタの話を捨てたのだと考える」と西郷信綱は言う。
 
 オオクニヌシの行きつくところは国譲りの一点であり、「この国は天つ神の御子に献らむ」である。抵抗せず死を選んだコトシロヌシも、抵抗して負けたタケミナカタも結局は譲られた側を引き立てる仕掛けにすぎないではないか。
西郷信綱の考証には瞠目したけれど、「コトシロヌシとタケミナカタはオオクニヌシの二つの異なる分身であった」とまで言い切っているのは想像力が柱の陰に隠れたのだろうか。そんなことで物語が成立してよいのか。何かほかのことに誰かが気づかなければドラマは成り立たないのではないのか。
 
忸怩たる云々と陳腐なことを言ってもはじまらない。かれらに匹敵する学究と想像力があれば問題解決の糸口がみつかるかもしれないと、やる気もないくせに、自分に対する言い訳が立てばそれでいいという思いもあり、実はそう思うこと自体エクスキューズにほかならなかったが、探究を避けてきた。
 
 そういうときである、益田勝実著「古事記」(岩波書店)と出会ったのは。益田勝実の古事記はそれまでのものとちがい登場人物が大昔ではなく、いま近くにいるのではないかというくらいの臨場感と筆力にあふれていた。
 
 オオクニヌシ・コトシロヌシ父子の国譲りの前、天つ神は3回にわたって高天原から使者(神)を派遣している。いうまでもなく高天原は大和朝廷であり、使者はいずれも失敗に終わっている。特に3回目に派遣されたアメノワカヒコはオオクニヌシの巧みな懐柔(と思うしかない)で彼の娘と結婚。
 
 長年の疑問の一つは以下のとおり。
3度も国譲り工作に失敗し、やっとのことで成就したことを語る大和朝廷の意図は何だったのか、豪族は各地に分散しているのに出雲に集約させたのはなぜか、出雲がかつての統治者であったかのような、そして大和が横取りしたと思わせるようではないか。
 
 対して自分なりの一定の答えの要約は次のとおり。
国づくりは何事にもまして困難をともない、簡単に成就しない。2度あることは3度あるという言い回しが古事記成立の時代にあったかどうかはともかくとして、冒険譚の原形があったといえないだろうか。ほんとうのことをほんとうらしく見せるために、あるいは、国づくりは途方もない労苦の連続であると言いたいがために。
 
 国譲りさせたなら出雲に拠点を置けばよい。ところがそうならなかったのはなぜか。益田勝実は次のように述べる。
「そうすれば出雲はまたまた天孫降臨の聖地である。すでに神話的伝承が多くある出雲に、まったく新しい伝承を割りこませて、もっともらしく受けとれるようにするのはむつかしい。天孫を大和へ降臨させればよかったが、出雲の国譲り以前に始祖は天下り、西方へ移ってきたという伝承が広まっていたとすれば、それもむつかしかろう」。
 
 さらに、「神が天下ってきたという伝承をもつ山は、大小あまたあるが、日向の高千穂を選んだのは、新しい神話創出に最もつごうのよい、知られざる聖地だったからであろう」とも述べている。
 
 益田勝実著「古事記」(1984発刊)を読む16年前(1968)、「火山列島の思想」(益田勝実)という思わせぶりな題名の書を筑摩書房が刊行していた。読まねばならない。だが絶版となっている。図書館へ行かねばと思っているうち雑事に忙殺され、1年半の病院通いもあり、忘れかけたころ、同書はちくま学芸文庫として1993年1月発刊(再版)された。
 
 目次(サブタイトル)の「火山列島の思想」には求めるものはなかった、が、「廃王伝説」はコトシロヌシについての謎を解くカギを示し、出雲と他地域に関するさまざまな疑問を解明し、多くのことを示唆してくれた。
                                      
                                  (未完)
                 
                  美保神社 本殿


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