2020年3月11日      事代主神(二)
 
 益田勝実著「火山列島の思想」の第4章目「廃王伝説」に次のように記されている。
「華南の最前線で日本の降伏を知った時、とても生きては帰れないだろう、どんな死にざまになるのか、と自分のことを思った。と同時に、天皇の自決はどんなふうであったのだろうか、ということも頭に浮かんだ。すると、国譲りの場面がおのずと思い浮かんできた。その記憶は消えては蘇り、いまもわたしにつきまとっている。」
 
 「なにもかも伝承で、伝承は空想の産物だというのなら、それでもよい。しかし、それにしては、コトシロヌシの死のくだりは細部描写に富み、迫力がある。これはどうでもよい伝承の末梢部分ではなくて、おそらく伝承者にとっての相当に重要な部分に違いない。」
 
 壮絶で生々しい戦争体験からそれまで気づかなかったこと、あるいは見落としていたことを練りなおす。研究室や書斎にこもり、史料・文献とにらめっこして、頭のなかでああじゃこうじゃと考えるだけで新たな発見があるのなら、小生は数百時間でも書斎にこもってみせよう。
過去の経験からヒントを得たり、過去を追懐したとき、もしくは歴史をたどる旅の途上で心の風景を発見したとき、はげしい波が押しよせ、くだけ散る瞬間、何かに気づくこともある。そういう体験は孤独ということばに置きかえられる。孤独と共存し、孤独を深めてゆく経験を追体験したとき啓明が示されるのである。
 
 堀田善衛は空襲体験から名著「方丈記私記」を書いた。平家の没落は飢饉・疫病と背中合わせだ。貴族の日記に書かれることのなかった具体的内容を鴨長明は庶民の視点で書いている。
 
 疫病と飢饉で強盗が横行するなど都の治安が乱れても、体を張って治安の維持につとめる平家一族と、なにもせずごちゃごちゃ言うだけの貴族とでは大違いである。
平家以外の貴族にとって庶民の大量死はまさに大量であって「他人事」なのだ。下鴨神社の禰宜の子・長明氏は禰宜になるべく働きかけたけれど、結局なれなかった。禰宜になっていれば庶民の視点に立てたかどうか。
 
 日本の神を考える場合、祀る者、祀られる神の優劣をあえて比較したとき、祀られる神のほうがうやまわれ、祀る者より優位に立つのが当然という考えでよいのだろうか。益田勝実は「それぞれの神の個性を突きとめていくべきではないのか」と述べている。
 
 出雲のオオクニヌシの事代(コトシロ)だった豪族は、コトシロヌシ神を旗印に出雲国全土の支配権をにぎっていた。とすれば、コトシロなる者がコトシロヌシを祀っていたはずで、祀ることによって出雲の支配を認めさせることができたろう。
そうなのだ、コトシロヌシがオオクニヌシの子に「昇格」したと益田勝実が述べているのはそういうことである。「日本の神は自ら現われず、神を祀る者に神のワザをさせる」。そう指摘した上で、「神はコトシロたちの主体性に深く依存し、司祭者から解放されようのない神になったという日本の神の発展の仕方が、日本の歴史を運命づけている面がある。」と記す。
 
 「出雲の国の支配者オオクニヌシが高天原側へ国を譲らねばならなくなったとき、記紀のなかでその全責任を負った出雲側の神はだれかというと、子の八重事代主の神であった。この国の大神ではなくて、そのコトシロたちの神であったことになる」、つまりは、オオクニヌシではなく「司祭コトシロヌシが意志決定権を持っている」のであり、「わが国の古代社会における、祀られる神に対する祀る者の優位性をはからずも露呈してしまった伝承といえよう」と益田氏は記している。
 
 コトシロヌシは海に青柴垣をつくり、天の逆手を打ち、船を踏みかたむけて隠れる(自死)けれど、オオクニヌシは祀られる。実質的な支配者は滅んでも、祀られた神は生き残る。いや、そうではなく祀られることによって受け継がれるのだ。
 
 ところで天の逆手とは何か。手の甲を合わせて叩くということらしいが、これは何の根拠もなく、でまかせにすぎない。
益田氏は、「拍手の呪いをこめた打ちかた。ブラック・マジックの作法」と述べて、それ以上言及していない。折口信夫や柳田国男、西郷信綱なども天の逆手について説明を避けている。「天の逆手」は呪いをあらわしていると思うが、いまなお意味がよくわからない。
 
 単なる「逆手」と「天の逆手」は意味がちがうような気がする。呪いであるなら、コトシロヌシは何を、誰を呪うのか。高天原の支配者、つまりは大和朝廷か。ならば大和が古事記にわざわざ「天の逆手」と伝えた意図は何か。
出雲を支配下におさめた大和のうわべだけの罪滅ぼしなのか。乗っ取られた側は恨んでいるだろう、だから呪いながら入水したが、呪われても大きな犠牲を払い、苦難のすえに国土を統一したと言いたかったのだろうか。
 
 小生は31歳から45歳まで14年間、旅行や出張、接待会食(夜)のない朝晩2回、拝殿に座って「祝詞」をあげてきた。「身禊大祓」、「天地一切清浄祓」、「祈念祝詞」と他の祝詞2種。祝詞の前後に二拝二拍手一拝づつ、計十二拝十二拍手六拝おこなうと50分かかり、1日のうち100分は祈りに費やされる。
14年のあいだ毎日2回祝詞と拍手をつづけてきた経験から言って、手の平でなく甲で叩く拍手は考えられないというより、安直な想像の産物としか言いようがない。
 
 コトシロヌシは、いつもの拍手なら指先は上=天に向いているが、天にいる高天原の神に対して手を打ちたくない、根の国(地下)=死者の国に対して拍手するという気持ちだったのではないだろうか。
両手を合わせて、指さきを下に向ける。それが天の逆手でなかったろうか。そして手を打った。古事記の「天の逆手を打ちなして」はそういうことであったのかもしれない。大和側はコトシロヌシの行動理由をわかっているけれど割愛し、思わせぶりな伝承の世界として記述した。
 
 「廃王伝説」は、「コトシロの一族こそ古出雲の平定者であったが、かれらの屈服後、おそらくは大和朝廷の斡旋によって、土地の支配権と、オオクニヌシを祀る権利を受け継いだのが(有力豪族)出雲臣(いずものおみ)であるだろう」と述べる。それが「出雲大社の国造(こくぞう)」である。
 
 日本書紀の一節に、「また汝が祭祀をつかさどらむは、天穂日命(あまのほひのみこと)、これなり」とある。オオクニヌシを祀るのはアマノホヒがおこなう、すなわちコトシロヌシに代わる新たな斎主がアマノホヒ。そしてアマノホヒを始祖とするのが出雲大社国造(こくぞう)さんと呼ばれている千家(せんげ)氏と北島氏。詳細は省くとして、14世紀以来、国造は千家氏と北島氏双方が名乗っており、明治期から宮司は千家氏が担当している。
 
 さて、松江市の美保神社である。コトシロヌシは美保の岬からオオクニヌシに呼び戻された(「わが子、八重言代主の神、これ申すべし。しかるに鳥の遊びし、魚取りに、みほの前(さき)に往きていまだ還り来ず」云々)。
事代は言代とも古事記に記される。和歌森太郎「美保神社の研究」は読むべき箇所が目白押し。美保神社で毎年4月7日におこなわれる「青柴垣神事」を詳細に記している。和歌森氏の業績はすばらしいとして、益田氏が卓越していることは、「出雲国風土記」、「官国弊社特殊神事調」(1924 神祇院)を分析した次の一文からうかがえる。
 
 戦前、美保神社の主祭神はミホツヒメであり、しかし「この地に祀られた古代の神はミホススミで、ミホツヒメでもコトシロヌシでもない。」 ミホ=美保。「神話上コトシロヌシのような重要な存在が鎮まらねばならないのであれば、風土記においても記念してよいはず。」 ミホツヒメを祀っていたことは、「本居宣長の弟子であった千家(北島家)の一族・俊信の説であるだけに重んじてよいようである。」
 
 「美保は穂に突き出た岬であり、それを敬称して御穂と呼ぶ。とすれば、美保は神である岬(さき)である。その岬の神の社だ」。「そう考えるなら在地的な青柴垣神事というわけにはいかなくなるだろう。」
「混乱のもとは青柴垣神事という名であろう。実体だけをみれば、コトシロヌシとかかわりのない、美保の岬の神ミホススミのみことの祭・最終段階の御渡り=海上への御神幸=である。」
 
 コトシロヌシの謎を解明する上で青柴垣神事を参考にするのはある意味徒労ともいえる。益田氏は、「そこになお大切な事が隠れているようにも思える。日本の神がかりのあり方である。」と述べ、論考はさらに活況をおびてくる。「日本の神は常在しない。祭の日に訪れる」以下は次回へ。
 
 いまも青柴垣を用いる上賀茂神社の御阿礼(みあれ)神事=葵祭の3日前 5月12日=の御阿礼は神の誕生の意。そしてまた、石清水八幡宮(京都府八幡市)の青山祭(1月18日)も青柴垣をこしらえるという。
 
 子どものころ、神秘や不思議にみちた何かが出現するときは風がおこるものだと思っていた。神主がお祓いに用いるオオヌサは、祓い浄めるためだけでなく、神があらわれる前兆の風をおこすための道具なのか。
小学生低学年のとき、学校からみにいった白黒映画「風の又三郎」の少年は、風をおこして神に遭いたかったのだ。神が風をはこぶのだから。しかし21世紀の異界では風に乗って魔物も来るのかもしれない。
                
                    (未完)

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