2020年6月4日      麒麟がくる
 
 抜群のカメラワーク、画面いっぱいにフレーミングされた光秀のハラができている。背景、照明がすばらしい上に音楽がなんともいえない哀愁の音色。オレンジ色に照らされ、伏し目がちの面(おもて)を上げていくと謀反をくわだてる目は一変、勇者の鋭さに変わる。
 
 かなしくも凜々しいBGMが流れ、おしまいのあたりで再び光秀の胸から上のショット。衣裳、ライティング、背景の美麗に逆らうようなさみしく、はかない目。本筋に入る前、ドラマは成功している。
一連の目は、光秀の生涯を本能寺からフィードバックし、無名時代から大名になるまでのすがすがしさ、混迷、しあわせ、苦悩、孤独、決断、無常を表現する。
 
 光秀役長谷川博己があの目をどのように工夫したかわからないけれど、手応えを感じているにちがいない。脚本家、演出家の意図をこえて生涯の当たり役。微妙な感情を目で表現できる役者は稀少。ほとんどは試みても空ぶりに終わる。
 
 それでドラマ本編はどうかといえば、斎藤道三をやった本木雅弘の常に戦場にいるような目、一本調子の力んだ演技が芝居になっておらずツヤ消し。木下藤吉郎役佐々木蔵之介は乱暴なセールスマンのようで芝居をつぶす。若手の染谷将太(信長)の芝居がよいだけにダイコンのアラが目立つ。
声のとおらない、もしくは口跡のよくない俳優は、セリフを言うとき怒鳴っている。光秀は肩に力を入れず、せりふもまずまずなのであるが、何かが欠けている。
 
 意外なのは岡村隆史の好演。気合い十分で、サマになっているのは役のハラをつかんでいるからだ。ちょっとした仕種、間、目に工夫がある。彼の出番はほかの出演者もがんばらざるをえず、芝居がおもしろくなる。
足利義輝役・向井理は「そろばん侍 風の市兵衛」以来めきめき腕を上げ、ハラ、せりふまわしがいい。義輝のシーンは近習役・谷原章介、眞島秀和の芝居もよく、光秀もみちがえるような芝居をやっている。ほかに土岐頼芸役・尾美としのりが健闘。
 
 室町末期にライフラインもへったくれもなく、ほとんどの武士が平時は農作業に従事し、幸不幸の実感は人間の根本に深く関わる。生活の糧が米など農作物であった時代、つかのまの些細な幸せが大きな喜びとなる。現代なら見向きもしないことが幸福。いま、豊作は神のめぐみ、不作は悪魔のしわざと考える都会人はいない。
 
 買物やスポーツジム、遊園地やレストラン、飲み屋に出られないからストレスがたまるなど、たわごとをいう都市生活者。干ばつや洪水によって餓死に追いこまれる人々とは感覚が異なる。
国は荒れ、助けは来ない。死神が襲いかかる。甘っちょろい現代人に経験できない深さ。感動が胸にせまる。そこに時代劇の存在意義がある。
 
 新型コロナ感染で圧倒的多数の巣ごもり生活者のなかに少数存在する不満だらけの都市生活者。現代劇が都市生活者の日常のストレス、不満、屈折した心理を題材にして久しい。現代劇は陳腐になったのである。屈折はしかし、「太閤記」(1965)で明智光秀をやった佐藤慶の芝居に較べれば月とすっぽん。重厚と屈折は見事だった。
 
 この20年、大河ドラマはみるべきものが激減した。みたのは、「元禄繚乱」、「武蔵」、「義経」、「篤姫」、「天地人」、「八重の桜」、「真田丸」だけ。評は省くとして、主役の芝居がよく、共演者もよくやった。脚本もよく、撮影も音楽も芳しかった。
ただし「真田丸」は草刈正雄の真田昌幸がぴったりだから。昌幸の側近役・中原丈雄は「孤独のグルメ7」のピザ屋が堂に入り、大坂夏の陣の岡本健一(毛利勝永)はよかった。
 
 「麒麟がくる」でがっかりしたことがひとつある。帰蝶役沢尻エリカの降板。風合いが帰蝶向きで、どことなくふてぶてしく、なんとなく貫禄のある沢尻エリカは帰蝶(信長室)のニンをそなえているのだ。
彼女の名を知ったのは、2015年春、衆院本会議欠席後のスキャンダルで名をはせ、横柄な態度で「なにわのエリカ」と呼ばれた上西小百合。彼女も本家も初耳。どちらも生意気そうな顔をしているが、容姿はホンモノが相当上。
 
 「麒麟がくる」の帰蝶は光秀と重要な場面で関係してくる。信長と帰蝶はおおむね同い年。いまはまだ問題ないけれど、帰蝶が30代後半になり、40代になって、川口春奈にこなせるだろうか。ふてぶてしさを表現するのは結構むずかしい。貫禄は身にそなわる雰囲気ゆえ、もっとむずかしい。
 
 光秀役はどうか。過去に提出、あるいは発見された史料が少ないのは、散逸したものもあるだろうが、逆臣と関わっていたことになるから秘匿した史料も多いと思う。これまで、光秀に本腰入れて探究する人も少なかった。
若いころの消息は不明ゆえ役づくりはしんどい。自分の光秀を演じると開き直ってもそうは問屋がおろさない。「国盗り物語」(1973)で近藤正臣は青春期から晩年の光秀をやったが、当時は役のハラが薄く芝居にならず。
 
 光秀についてルイス・フロイス著「日本史」に、「才略、深慮、狡猾」の人物であり、「裏切りや密会を好み」、「己を偽装するに抜け目がなく、戦において謀略を得意とし」、「忍耐力に富み、計略と策謀の達人」、「戦に熟練の士を使いこなしていた」などと記されている(フロイス・日本史「五畿内篇(3)」)。狡猾で計略と策謀の達人とは、光秀ではなく豊臣秀吉のことではないのか。
 
 光秀の人物像とも取れるけれど、複数の人物が光秀ひとりに集約されたようにもみえる。謀=はかりごとを多用していることもあり、ほんとうに光秀の実像を著しているか疑わしい。衝撃的な本能寺謀反から時計を巻き戻すと、「狡猾」、「裏切り」、「己を偽装するに抜け目がない」という謀略のイメージが後々までついてまわったのかもしれない。
 
 「フロイスの日本覚書」(中央公論)によると、「日本史」の冒頭となる「日本総論」をフロイスが執筆しはじめたのは1584年で、1586年に大坂城において関白秀吉と謁見し、同年12月末から「日本史」第一部(1549−78)を、1590年から「第二部」(1578−89)を書く。フロイスは秀吉と談合して光秀を悪し様に書いたとは考えられないだろか。
 
 一族郎党の命運を賭けて一か八かの大勝負に打って出るとき、直近の出来事で動くとは考えにくい。光秀が狡猾、偽装の人であれば、見抜けなかった信長の無警戒は天才バカボンではないか。信長は周囲が考えているより光秀に対する信頼が篤かったように思える。
光秀の人間関係、行程を追って人生観を深掘りし、旧暦5月28日(新暦6月16日)、愛宕山で詠んだ「ときはいま あめが下知る 五月かな」(「信長公記」明智日向西国出陣の事)に至る動機をさぐるには、過去の幽囚と心の風景を見なければならない。
 
 新暦1582年6月20日夜、「聖体の祝日後の水曜、亀山城に集まっていた腹心4名に伝え」、軍勢はきびすを返して京へ向かう。「腹心は一瞬呆然とした」とフロイスは記している。
光秀が勇猛果敢で大胆であったことを述べる史料は少ない。「信長公記」巻九の、松永弾正が立てこもる奈良県王寺の片岡城を攻めたことなど数々の武勲の経験がなければ本能寺の変もなかったろう。本能寺後の構想もめぐらしていただろう。
 
 朝夕動かしていまだ戦絶えずの状況で光秀の心に去来したのは何か。朝は日出の信長、夕は落日の足利義昭。仲介は光秀。長い浪人生活、消息不明をへての中途入社である。
頭角をあらわし、出世するには知惠と勇気、武功は必須。脚本、演出の腕のみせどころである。そういうたのしみもあり、それでも「麒麟がくる」は最初の2分、顔のクローズアップと表情の変化、音楽がたまらない。
 
 「何かが欠けている」と書いた。欠けているのは当然である。だれしもそうだ。不足をおぎなうべく生き、光秀になってゆく。しかし不足は最期まで満たされることなく、生涯は、謀反も、すがすがしさ、いさましさ、さみしさ、はかなさも目に凝縮される。
 
 6月7日で中断するが、回数が短くなり、長丁場のドラマを持たせるためのくだらない場面が減る。再開されたなら、ピリッとしない共演者も性根をいれ、佳境に入ってよくなる光秀を前にカラ回りにせぬよう心がけてもらいたい。
 
 役者が心がけることは、役のハラをつかむことである。演じる人間、および語り合う人物の心の風景に思いをはせ、過去の幽囚を見よ。過去は人の幽囚であり、人は過去の幽囚である。
長谷川博己は自らの、そして光秀の幽囚をとらえた。いや、そうではないだろう、幽囚にとりこまれたのだ。役者の本懐はそこにあってほかにない。
 
 夏から秋にかけて咲く桔梗。明智の家紋「桔梗」は不幸の旗印。不幸でなかった人間はいるだろうか。不幸は長く、幸福はつかのま、それゆえ喜びもひとしお。時代劇の深さである。

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