2020年8月1日      雨月物語

「雨月物語」のワンシーン
 
 
「雨月物語」(1953)と「羅生門」(1950)は、洗練度は雨月のほうが高いとして、ともに京マチ子の名を国内外に轟かせた名作である。
20世紀が終わりを告げようとするころテレビで「雨月物語」をみたとき、森雅之、田中絹代、毛利菊枝といった芝居のうまいベテランと共演し京マチ子は見劣りするだろうと思っていたが、羅生門の初々しさ、一途さは払拭され、艶のある女。
 
 京マチ子の「羅生門」出演は、国内外で彼女の顔と羅生門をおぼえさせたという意味において画期的だった。それまでの日本映画に登場するのは型にはめたようにつつましく没個性的な女で、観衆が目を見張るほど生命力にみちていなかった。京マチ子が抜擢されなければ、外国映画祭で受賞できたかどうかも疑わしい。
 
 雨月物語は怪談もの。怪談に最初から怪しい雰囲気で登場するのは愚の骨頂。亡霊も妖怪も男に見破られるようではドラマにならない。たぶらかしついでに観客も煙に巻いてこそ妖怪変化。
教養と色気の二段構えで男を籠絡し、ここぞというときにぶっかえる。そこへもっていくまでの流麗華美、さすがと思わせる芝居をやって一人前の女優である。荒削りだった羅生門の女は、雨月物語でうわべを飾らず、洗練され落ち着いた女に変身する。ストーリーも二段構えの怪談。セットも衣裳もよかったし、撮影(宮川一夫)もよかった。
 
 現代劇なら役柄によっては同等かそれ以上の演技をする女優はいる。先輩田中絹代、同い年淡島千景。後輩津島恵子、佐久間良子。しかし時代劇の京マチ子は別格である。
 
 戦前、「団十郎三代」(1944 松竹)という映画が製作された。監督溝口健二、出演田中絹代、河原崎権十郎ほか。20歳の京マチ子は当人の言によると、「まだ松竹歌劇団に在籍のときで、つまみ出されたという感じ」(「キネマ旬報1984年3月下旬号・水野晴郎との対談)という。
「出番もそんなにないし、団十郎の娘役かなにかで絹代先生が乳母だったと思うんです。毎日、撮影を待つ時間が長いでしょう。その日、出番がなかったり。小さなお部屋でしたけど楽屋があって、窓をあけると嵐山が見えて‥」
 
 「考えることといったら、とにかく早く撮りあげていただいて、帰りたいということですね。(中略)」。 「試写もみてないし、自信もないし、おっかないし。母と祖母がみにいって、お腹かかえながら帰ってきたんです。まあ、コロコロ太ってね、みるも無惨な感じだったらしいです」。
京マチ子の芸名は祖母と母がつけたらしい。「京町さんという方が上級生にいらして、じゃあ半分に切りましょうって、京マチコになったんです。ただ、サインしにくいというので京マチ子にしました」(前掲書・対談)。
 
 1949年京マチ子が大映(京都)にはいって「痴人の愛」、「羅生門」、「偽れる盛装」などの映画でスター街道を走っているとき「雨月物語」が撮影された。溝口健二との二度目の出会いである。
雨月物語の前、溝口作品の撮影セットをのぞきにいったら、溝口は彼女をおぼえており、チョイ役なのに懐かしがってくれたという(前掲書)。溝口健二が大映の依頼を受け「雨月物語」のメガホンをとったのは、スタッフ・キャスト全員にとって幸運。
 
 溝口健二の自宅は、仁和寺の南西、嵐電北野線「御室仁和寺」駅と「宇多野」駅の中間点の北(双和郷)にあった。仁和寺から至近距離で、近辺には溝口健二が建てたという小さな鳥居と社だけの「双和郷稲荷大明神」があるはず(右京区宇多野柴崎町)。しかし溝口健二が建てたというのはほんとうだろうか。
閑静な住宅地の一角は、「うすぐもりの空から思い出したように強い陽がさしてくるかと思えば、黒い雲がいっぱいひろがり、パラパラと雨が降る」ところである。
 
 肉体派として大映が売り出した女優が眉を剃り落としたのは、本人曰く(羅生門撮影リハーサル時に)、「私、眉毛が太いんです。現代的な顔になっちゃう。舞台なら眉毛はつぶせるけど、映画ではできないし、カットしていたら、スッポンポンに落としたほうがいいなと思って、あとは粉ズミでぼかして、能面みたいに工夫して」。
 
 鏡にうつる顔を見て、これならいけると思ったのだろう。役のハラは些細なことを見落とさず、生かすことにより定まってゆく。京マチ子は前シテ、後ジテをやるという心構えを保ち、修羅寸前の自分能のカタチをつくりあげたのだ。
 
 無我夢中だった「羅生門」で名声を得た京マチ子は3年後、「雨月物語」においてフランスで高く評価される。豊満な肉体と色気を隠して幽玄を表現したからだ。幽玄とは色を隠し、余韻を残して想像させることにほかならず、能面は無表情ではなく、あらゆる可能性を秘めた表情である。
 
 溝口健二著作集の「溝口健二・自作を語る」で彼は述べている。「僕の考えでは雨月はもっとカラいものなんだよ。小沢栄の男ね、あれもラストで改心したりしないで、どんどん出世を続けていくように最初書いた。
それを会社が変な商業主義から甘くしろという。商売人がいるとやりにくいね。(中略)雨月は筋をこしらえすぎてると向こう(ヨーロッパ)の人間に言われた」。雨月については、人間の欲と心の迷い、また、水墨画の格調、美しさ、単純化されたもののなかに立派なものがあるとも語っている。
 
 「赤線地帯」(1956)や「浮草」(1959)、「ぼんち」(1960)で京マチ子と共演した大映の後輩若尾文子がこんなことを言っている。「京さんはグランプリ女優、山本富士子さんは高嶺の花、対して若尾文子は低嶺の花。私が言ったんじゃなくて永田さん(大映社長)がおっしゃったの。よく考えたら失礼ですよね」。
(キネマ旬報2019年7月下旬号「追悼 京マチ子」)
 
 86歳の若尾をして、「京さんは脚が長くて、すごい肉体美の方。京さんの肉体がほしかった。あの輝くような肉体がうらやましかった」と言わしむる肉体。女優は灰になるまで女優であると思わせる若尾文子の発言である。

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