2020年10月28日      赤ひげ3
 
 10月23日、「赤ひげ3」がはじまった。赤ひげと若手医師がメシを食うシーンが今回なかったのは寂しい。次回から登場させてもらいたい。津川(前田公揮)の仏頂面と言いぐさ、田山の新米ぶり、病人の世話と家事にてんやわんやの住み込み使用人(女3人)も味があってよい。保本(中村蒼)は過去2回の「赤ひげ」(加山雄三とあおい輝彦)より数段いい。
 
 人情と限界が交錯し、意外な展開となり人情が勝ってしまうところに人情時代劇の妙味がある。町奉行の同心がつぐみ(優希美青)という17歳の女を小石川養生所に連れてくる。患者のなかに腹痛をうったえる若い女がいて、その女が養生所の金を盗もうとしてやめるところを目撃したつぐみは、赤ひげの医学書(オランダ語)を盗み見する。
 
 そこまで来ると、つぐみがオランダ語を読めるとわかる。主要な登場人物にどういう役柄を持たせ、どういう場面で出すかによってドラマの良し悪しが決まる。赤ひげ2に出ていた「およね」(佐津川愛美)もつぐみも不幸な境遇ゆえに憎まれ口をたたくという共通点がある。
 
 赤ひげは反骨の人である。うわべを飾らず気取らない。恵まれない人々に手をさしのべる人間はそういうところを持っている。魅力的なのだ。ドラマ進展のテンポがよく、音楽もミステリアスでユーモラス。
人生は名探偵不在のミステリードラマだ。解明しそこなったまま次から次へと重い課題がのしかかる。疑念と混迷に押しつぶされそうになっても助けは来ない。
 
 天は自ら助ける者を助くなどということは貧困にあえいでいる人たちに通用するだろうか。他人は当然、自分さえも信用できない者にとって天は単なる空間か空洞にすぎない。赤ひげの真の敵は役立たずの天である。救おうとして救われない者を阻む得体の知れない運命という名の天である。
 
 人は結局、自分が思ったようにしか行動しない。しかし赤ひげはしぶとく天に挑戦するかのごとく行動する。何のために、誰のために?そこに夜の闇より深い彼の生きざまを見る。闇を経験すれば光のありがたさが鮮明になるだろう。
 
 状況が悪化しても忘れたふりをして日々をすごすのはなぜか。傷ついた心身、過酷な現実にふたをするのはなぜか。さまざまな問題は未解決のまま時間だけが過ぎてゆく。
人情時代劇は都会人の孤独を描かない。江戸に住んでいても都会人の不安や孤立を描かない。都会の孤独だの、閉塞だのと甘っちょろい現代人に特有な状況はメシのタネにならず、そこから生まれるものはないからだ。
 
 30年くらい前、頻繁に道東へ行った。寝泊まりしていた家の前に広い畑があり、地元の人がボランティアでカボチャ、トマトなどの野菜、イチゴなどの果物と、チューリップなど花を育てた。タネまきから始めて育ててくれた。野菜と花は担当者が異なる。野菜担当のおばあさんが花担当のおばあさんに、「花が食えるか」と言う。
 
 両者と私は親子以上の年齢差があった。野菜、特にマサカリと呼ばれるカボチャは超のつくほど美味で、花も色鮮やかできれいだった。食える、食えないはともかく、較べられないものを較べるとおもしろい会話になる。
 
 21世紀の都会にどれほどのおもしろさがあるのだろう、私にはわからない。気取った人間がうわべを飾り、もしくは虚勢を張って、互いを無視して歩いているだけのように思える。時代劇にそういう場面があれば、時代劇はおもしろくなるだろうか。いっときだけずっこけて滑稽かもしれないが、それだけの話だ。
 
 昭和30年半ばまでを懐かしむ気持ちが時代劇に通じる。わかる人にはわかるだろう。古き良き時代。

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