2021年5月30日      秀太郎の色気
 
 近年まで上方歌舞伎の伝統を継承していた役者は三人。坂田藤十郎が旅立ち、5月下旬、片岡秀太郎も去り、残るは片岡仁左衛門だけになってしまった。
世話物のなかでも独特の風合いの柔らかみ、滑稽、タイムリーなアドリブを表現するのが上方の和事(わごと)。戦前、戦後間もないころ大阪京都で育ち、江戸明治の祖父、父、市井の人々と接していなければ出せない古風でまろやかな味。
 
 あれは平成3年だったか、南座顔見世に役者がそろったのは。昼の部、片岡孝夫(当時)が熊谷をやった「熊谷陣屋)に中村吉右衛門、市川左團次、中村芝翫(当時)、児太郎(当時)が出て、「吉野山」の狐忠信を市川猿之助(先代)、静御前を中村鴈治郎(当時)、道化役・早見藤太(はやみのとうた)を市川段四郎がやった。
 
 「封印切」(ふういんぎり)の忠兵衛を鴈治郎、遊女・梅川を中村浩太郎(現扇雀)、おえんを秀太郎、八右衛門を孝夫。しばらく歌舞伎から遠ざかっていた。本格的に歌舞伎をみるきっかけとなったのが、そのときの役者の芸。
「吉野山」の忠信をやった猿之助の指は狐になる。そして「封印切」のおえん、八右衛門。仁左衛門が八右衛門をやると憎たらしくて石でも投げてやろうかと思ってしまう。
 
 芸妓、仲居が「おえんさ〜ん」と呼び、登場したときの風情、しぐさは、祇園花見小路の下宿先で何度も見たお茶屋、料理茶屋の女将より明るく華やか。女将の雰囲気を保ち、それでいて庶民的。気取らない。当時、秀太郎の実年齢は50歳くらい。「年齢なんてただの数字」と旅先の英国人が言っていたが、女形の心意気はかくありなん。
 
 その翌々年だったか、秀太郎は南座で花魁の役をやった。これが秀逸。舞台下手(花道に近い)の桟敷でみていた。花道揚幕からしずしずと歩いてきた花魁が、遊女にしては楚々として、しかし芳香をただよわせるいい女だった。わたしの前を通りかかる。気取らない女の色気は伝わり方が違う。魅力的なのだ。
 
 「すごい色気」とつぶやいただけである。秀太郎はさっと左に顔を向け、わたしをじっと見て、それ以上ないような思い入れをし、幽かにほほえんだ。秀太郎の芸はその後、何度もみた。和事が合っていた。「すし屋」の「いがみの権太」女房小せんのように夫の犠牲となる役もよかった。
 
 歌舞伎に格というものがあって、風格とか品格のことである。役者ごとの格もある。偉そうにして格が備わるなら、木っ端役人や末端の俳優でも備わる。格じゃ、格じゃとやかましいのは演劇評論家。役者は舞台に立つと格など消え、そのつど役に合うリアルさを伝えながら客に愉しんでもらう。秀太郎の真骨頂である。
 
 気取ると色気は安っぽくなる。ムダな動きも色気を損なう。自分は特別な人間だと思って気取る女性もいるだろうが、日本で特別なのは上皇・上皇后と天皇・皇后だけである。
 
 秀太郎の甥・片岡孝太郎のブログ5月27日に、「遺言は、家族葬で済ませ全てが終わるまでは、人に知らせるな、悟られるな」と記している。79歳の女形は、女形のまま旅立った。

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