2022年9月1日      昭和レトロ ドラマ「アイドル」
 
 たまには日本のドラマをみなければならない。8月上旬、偶然チャンネルを切り替えたとき番組紹介らしきものをみた。戦前、新宿にあったムーランルージュを舞台に歌い、踊る明日待子の実話をもとにしたドラマ。数分あるかないかの予告編だった。古き懐かしい昭和を思いおこさせるドラマ。予告編をみて主役の歌と踊り、芝居に魅了された。
 
 バックコーラスを歌って踊る女子の半数は肉付きがよく、脚もすらりとしていない。顔もそれなりで、いかにも昭和レトロ。キャスティングを工夫したとわかり、それだけで芝居に引きこまれる。
ムーランルージュ新宿座はどのような劇場だったのか。興味のある方は調べてもらうこととして、ムーランルージュはある種芸人の登竜門で、有島一郎、益田喜頓、三木のり平、森繁久弥、三崎千恵子など多くのコメディアン、俳優が出演した。
 
 戦中を暗く描くことに慣れ、みるほうもそれが当たり前と受けとめ、みたくないのが戦中ドラマ。ところが今回、明るく、やりきれなく、しかし愉しいドラマをつくるべきという期待が叶えられた。椎名桔平のほかは初めてみる俳優ばかり。
 
 歌って、踊って、芝居のうまい日本の女優は、映画「踊子」(1957)の京マチ子、淡島千景。特に若いころの京マチ子の魅力に匹敵する女優はいないという気持ちはいまも変わらず、「踊子」の肉感的でスタイルのいいダンシングチームふう京マチ子の自然で明るい表情は現役の歌劇団員の手本になる。
 
 「アイドル」の主役古川琴音の三拍子そろった芝居は近年来の収穫である。古川琴音の面立ちは「マルサの女2」(1988 監督 伊丹十三)に出ていた洞口依子や、「純情キラリ」の宮崎あおいより個性的。役柄のハラもつかんでいる。彼女が主人公(二階堂ふみ)の娘役をやった朝ドラ「エール」は一度もみていない。こんなに芝居のうまい後輩が娘をやるならと思いを新たにしたかもしれない。
 
 ドラマ「アイドル」は脚本、演出(踊りと歌)、衣装、美術、音楽、撮影が秀逸で、キャスティングは脇役、端役にいたるまできめ細かく行き届いている。すぐれた脚本に息を吹きかけるのは役者。
 
 古川琴音(明日待子)は場面ごとに異なる衣装を着て、軽快に踊り、時代を生きていた。レオタードからボルドーワインの上下、花柄のワンピースなど何でも着こなしてしまう。
昭和レトロのステージは親しみやすい。歌って踊るシーンは生の舞台をみているような臨場感。「ここは新宿、何でもありの世界」に始まる歌が何度かくり返される。ほんの少しメロディを変えるだけで感じも変わる不思議な歌。
 
 ツルやサギは上手に飛ぼうとか華麗に舞おうと意識しているわけではない、自然のすがたを美しく感じさせる。演技を感じさせない芝居は自然で、ムダもない。役者の上手下手の分かれめはそこにある。
21世紀のアイドルとメディアが称する少女たちの踊りはただ身体を動かしているだけ、歌は口を開け閉めしているだけ。身体の軸もぶれている。
 
 先輩の芳子さん(元宝怏フ劇団の愛希《まなき》れいか)が踊子見習いの主人公に言う「もっと自分勝手になりなさい。でなきゃ生き残れないよ」というセリフはドラマ後編への伏線だ。
 
 宝怏フ劇の歌と踊りには独特の宝怎Xタイルがあって、どこかあか抜けしておらず、ファンでない小生はみる気にならないが、ファンにとってはそこがいいのかもしれない。愛希れいかは宝恷梠繧謔濶フも踊りもうまくなったように思える。
山崎育三郎との舞台で、「わたしが望むのはたったひとつ、わたしの前から消え失せて」という場面。コメディタッチのせりふ回しと雰囲気が堂に入っている。
 
 明日待子が病気療養中の芳子姉さんに代わって舞台に躍り出る。踊子たちが全員ピンクの衣装と帽子を身につけ歌い舞い、客席に「ありがとうございました」と挨拶するシーンはキャンディーズを思わせる。キャンディーズの活動期間は5年と短かったが、昭和後半の正真正銘のアイドルだった。それはさておき、ドラマ「アイドル」に一貫しているのはテンポのよさ。
 
 古川琴音の相手役(早稲田の学生)は正門良規(まさかどよしのり)。21世紀ふう面立ちのアイドルに昭和レトロの雰囲気をなびかせる学生役ができるのは驚き。
どこかで見たような顔を思い出せなかったのは、あまりにもイメージが違うからで、つまり芝居がうまい。7月25日から29日まで、毎日20キロ計100キロ京都を歩くテレビ番組「正門良規 京都ガチ歩き」。関西弁のさわやかな好青年。
 
 劇場のオーナー役椎名桔平が好演している。明日待子に、「この世界でがんばっていないやつなんかいない。それでもスポットライトが当たる者とそうでない者がいる。ほんのわずかな運をつかみとれるかどうかだ。逃げるな。こわくても手をのばせ」というくだり、言う者と聞く者の居住まいが出色。ほかの場面の多くもすぐれた脚本を役者が生かす。
 
 ムーランルージュの看板男優役山崎育三郎の歌と踊りも冴えている。明日待子の踊子友だち(田村芽実)は若いころの春川ますみに似てほんのり癒やされる。踊子のひとりひとりの目立たぬが確実な芝居もみどころ。出演者全員の気合いの入り方といい、よくぞこれだけの人材を揃えてくれた。
 
 新宿で駈けだしのころ、連日おこなわれる稽古明けの朝、踊子たちが外に出ると自転車に乗った牛乳売りが通りかかる。牛乳一本の値段は知らないが、先輩男性が後輩に牛乳を買ってあげ、「おいしいー」と言って飲む主役と踊子。飲むときの間、飲み方にも工夫がある。子どものころの自分が飲んでいる気分。
 
 牛乳一本がご馳走だった当時の世相が映しだされる。そういうシーンも手を抜かない。スポーツに熱中するとか、スマホにひたむきという時代ではない、生きることにひたむきな時代。人間が思い出を美化するのではない、思い出が人間を美化するのです。ドラマはテンポよく進む。
 
 古川琴音の澄んだ歌声。「恋はやさし野辺の花よ」を自分のものにしている。実物の明日待子は学徒出陣がおこなわれるさなか、ムーランルージュに観劇に来た学生(主に早稲田大学)を前に舞台から降り、ひとりひとりに、「ご苦労さま。ご武運長久をお祈りいたします」と声を掛けたそうだ。そのシーンが出てくる。明日待子はカルピスの初代イメージガールだ。
 
 藤紫色のレオタードにステージ用スカートを身につけ、赤のヘアーバンドを巻いた古川琴音。舞台で歌うことも踊ることも許さない戦争を嘆く山崎育三郎。ほの暗い舞台と客席を照らす青の照明が効いている。短いけれど名場面。
 
 陸軍将校がムーランルージュに来て、「慰問団として大陸に渡ってくれ」と依頼する。劇場主は断るのだが、明日待子は行きたい。劇場主に詰問する。彼は軍に利用されるのが不愉快だと言う。
劇場の男性看板役者や、支える脇役男性はみな兵隊に取られている。理屈のために人は戦わない。政治のために死ねるなら政治家は百万回死なねばならない。
 
 明日待子は悩む。自分は兵士が死に行くための支えにすぎなかったのではないか。「お前がスターになろうがなるまいが、多くの人は戦争に行ったし、命を落とした」と劇場主は言う。それでも彼女の傷は癒えない。どうしたらやる気を取りもどせるか、理屈は要らない。感動的なシーンが続く。
 
 明日待子(古川琴音)は歌を上手に歌おうとせず心から歌う。だから感動をもたらす。ドラマの進行につれて徐々に踊りがうまくなってゆく。。英国の有力女優のように演じる役をぜんぶ自分の持ち役にする実力をそなえた役者が出現し、熱演という陳腐な演技ではなく、演技を感じさせないステキなドラマがつくられた。
 


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