平安中期に生きた女性によって書かれた日記がリアルで説得力を持つのは、女房として仕えた女人の私生活にかかわるものであり、官吏なら秘匿せねばならぬ事柄を包みかくさず描きえたからだ。中宮や皇后に仕える女房はすくなくとも30人はいたろう。
読者は宮廷で暮らし、多くて数百人。女性貴族は歌を交換し、物語や日記を読む。兼家(道長の父)とのあいだに道綱を生んだ母の「かげろふ日記」は相手について綿々と記しリアル。夜、用があると帰っていく兼家を尾行させると別の女の寝所へ行った云々。ほかの日記にない描写。源氏物語執筆にあたって紫式部が参考にしたのではないか。
女性が平安文学に果たした功績は大きく、宮廷内外のさまざまな日常を軸として、自らの経験にもとづき感情の細やかさ、いのちのはかなさ、無常観を表したことに凝縮される。1000年前、日本以外の国でみることのない画期的な出来事。女性たちの文章力が卓越している。
公的機関官吏の男子が書いた他者に読まれることを前提としない日記には宮廷や高位貴族の秘密を暴露するものもある。だが、藤原実資の「小右記」、行成の「権記」などに中宮彰子出産で右往左往する女房のことや、彼女らの服装、衣の色は記されていない。
「紫式部日記」に特徴的なのは、そういうことも書かれており(紫式部日記・十七「よろずの物くもりなく」)、整然とした宮廷生活の生き生きした光景に人間観察の妙味が伝わってくる。故事来歴、有職故実を羅列されても、学者気取りのインテリは別として一般の読者は飽きるだろう。
「平安の都」(角田文衞編著)に清涼殿の東北部の見取図と記述があり、天皇の寝所には神剣と神璽(しんじ=勾玉)が置かれており、そこで后や女御と交歓するのははばかられたため別の一室が使われ、その日の相手が参上し寵愛を受けた。
道長の祖父・師輔は、醍醐天皇の皇女のもとに忍び込み、30代半ばの内親王を二度にわたって懐妊させ、二人目の子が後に太政大臣となる公季(きんすえ)。内親王は師輔の妻となるが、天皇(朱雀天皇)の同母姉と臣下の結婚は前代未聞。
「平安の春」(角田文衞著)に986年、「嵯峨野の野々宮で潔斎中の斎宮・済子(なりこ)女王は、警護の滝口・平致光(むねみつ)と密通し斎宮を廃された」、「紫式部は、またいとこにあたる女王の体をはった恋に衝撃を受けたことであろう」とも述べている。
角田文衞は1965年、京都御苑東隣の廬山寺を紫式部の住居跡と特定したことでも知られる。「光る君へ」の時代考証を担当する倉本一宏氏は「藤原道長の権力と欲望ー紫式部の時代」に、「紫式部が生まれ育ったのは、曾祖父が残した堤弟の半分であるとされ、現在の梨木神社から廬山寺にかけての地のうち半分ということになる」と記す。
文衞氏によると紫式部は「内向的でアクが強く」(「平安の春」)、「鋭く、意地悪な批判」が多い。「しかし、心の奥底では、どうにもならない虚無的な苦悩をもてあましていた」。式部の娘・賢子(かたこ)は、「歌才は母を凌駕するほどであったが、男性遍歴は目まぐるしく、それが詩嚢(しのう)を肥やしたとも言える」と記している。
紫式部日記に「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人」と前置きして書いた「辛辣きわまりない清少納言評はあまりに有名である」らしい。
清少納言の逸話は興味深い。生家は没落したが、「晩年の清少納言は経済的には零落していなかった。彼女には位田があったし、息子も娘も中流の貴族として活躍していた」。「古事談に見えるあばら屋に敗残の余生を送ったというのは作り事であり」、「小野小町などに例を見る通り、才女の末路をおもしろくつづった創作」と記す。
50歳前後で落飾してまもない1017年ごろ、清少納言は兄の家(六角小路・富小路)に住んでいた。同年3月11日、兄と険悪だった源頼親が遣わした賊20名余に襲われる事件がおきる。
兄はその場で殺害され、彼女も縁者の老僧(男)とみなされ殺されそうになった。そのとき彼女はとっさに裾をまくり女陰を見せ、尼であることを示し難をのがれたという(「古事談」)。
この話が事実だとすると、気位が高く賢ぶり(「紫式部日記」=したり顔にいみじうはべりける)、才能をひけらかしていた(同日記=さばかりさかしだち)だけでなく、とっさに局所をひけらかし命拾いした清少納言には危機突破の才もあったということになるのかもしれない。
本名も生没年も不明、しかし平安中期随一の有名人紫式部が主人公の「光る君へ」。ドラマのなかで、いつ、どこで、だれにどういうせりふを言わせるか。
道長や清少納言、和泉式部をのぞく登場人物は視聴者のなじみも深くないから新鮮味があり、立派な大道具、平安末期の作とされる源氏物語絵巻によって再現された美しい衣裳と色づかいに惹かれる。
2024年10月20日放送の「光る君へ」第40回は一条天皇(塩野瑛久)の崩御。ドラマに彩りをそえるのは衣裳だけではなく役者である。彼は終始いい芝居をしており、気品、尊厳、滋味を併せもつ天皇を体現し、雅な平安朝へ連れていってくれた。崩御のシーンで本領発揮。一等星が消滅するはかなさを見せた。敦康親王をやった片岡千之助はさすがに仁左衛門の孫。恵まれない親王役を愁いをこめてすっきりこなした。
「光る君へ」の脚本に不足しているのは細やかな情愛。貴族社会ゆえ気品が情愛に勝ると決めつけず、両者並立でドラマにのぞむという姿勢を保ちつつ、情愛を率直に示す人物設定もあってしかるべき。蔵人、女官、女房のだれでもいい、人情を感じさせるせりふやシーンを多めに設けるべきだった。
かなしい目をする人はごくわずか。物事があっけなく過ぎていき、余韻が残らない。高位官吏の人情欠乏は昔も今も同じなのか。はかなさの欠如した王朝美はドラマを盛り立てない。60年前なら子どものなかにも一瞬はかない顔をする子がいた。むなしくなったのに感銘したことを今でもおぼえている。
風流だけで和歌が詠まれるなら貴族の日常は楽なものだろうけれど、花鳥風月を愛でていても寂しさ、はかなさが生活に忍びより、寂寞を詠んだ和歌は時代をこえて胸にせまる。時が止まっているのだ。そしてそこに哀歓も美もとどまる。
高等遊民が気取ったせりふを言うのは漱石の初期作品だけで沢山。庶民の暮らしとかけ離れている雅は羨望の的だが、共感を呼ぶのは、こういうふうに節約していたとか、情け深い貴族もいるといった生活密着感である。
衣食住は貴族社会において関心事であったろう。中宮に仕える女房の衣裳は自前か賄いか確かめていないが、華美な衣装はほぼ賄いだったように思える。「光る君へ」では食事の内容も何回か放送された。菓子も登場した。
都での火事は多かった。自邸が焼失した場合、高位貴族でも所有田のすくない者は建築費捻出に苦労したと思われる。邸宅を建てられるかどうか先が見えず、親戚や友人をたよってしばらく居候した貴族もいるだろう。家を失った人間の悲惨は時代を問わない。
平安時代に連続テレビドラマをみることができたなら。自分の時代より古い飛鳥時代や奈良時代の名だたる天皇、皇后、皇女、女官の吝嗇な日常、予算不足の儀式、呆気ない恋愛を視聴できたなら、あまたの女房、女官はドラマに入れ込み、寝所に通う回数を減らしてと男に提案するだろう。夜の過ごし方が変化する。
あしたは来ないでね、「額田王」(ぬかたのおおきみ)みたいから。あさっても遠慮してよ。「光明子」(こうみょうし)」、いまおもしろいところなの。
男だって負けてはいません。来週は行けない。「道鏡」が佳境に入って見逃せない。「阿倍仲麻呂」も大詰。「中臣鎌足」もはずせない、私たちのご先祖だし。飛鳥時代、奈良時代は物価も安く、良き時代だった。それに較べて今の世は。
源氏物語絵巻 光源氏が冷泉帝より宴に招かれるようす

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