弁天小僧の「知らざあ言ってきかせやしょう」は往年の時代劇ファンなら知らない人はいない有名なせりふである。子どものころ一度は言ってみたかったけれど、ちゃんばらごっこでこのせりふは言えない。
「姓は丹下、名は左膳」なら言えても、「こいつぁ春から縁起がいいわぇ」(三人吉左のお嬢吉三のせりふ)や弁天小僧の「知らざぁ言ってきかせやしょう」はちゃんばらに合いそうにない。
どこで言っていたかというと、自宅の祖父の畑。あるいは裏庭。あのころ歌舞伎はまだみておらず、1955年、歌謡曲「弁天小僧」を歌った三浦洸一の歌詞「牡丹のようなお嬢さん しっぽ出すぜと浜松屋 (中略) 知らざあいって聞かせやしょう おっとおいらぁ弁天小僧菊之助」で知った。
弁天小僧の登場する歌舞伎「白浪五人男」は五代目尾上菊五郎(1844−1903)が19歳のとき、河竹黙阿弥(二世河竹新七 1816−1893)に依頼して書いてもらった(出典「五代尾上菊五郎自伝」)という。
弁天小僧のいでたちは豊国の描いた「緋縮緬の長襦袢、島田髷(まげ)が横にくずれ、緋鹿子の切れがかかり、抜き身の刀を畳に突き刺す」絵で、その絵を楽屋へ持ってきた人がいたらしい。
弁天小僧は六代目、七代目菊五郎と継承され、音羽屋の芸として定着した。ほかの役者ではサマにならないのだ。女形も兼ねる七代目の弁天小僧は2回みた。
美しく、ふてぶてしく、可愛さも残る弁天小僧をこれほどうまく演じる役者はいない。浜松屋の場で「知らざあ言って聞かせたしょう」のセリフを言うとき、「知らざあ言って」までをふつうのテンポで、「聞かせやしょう」をたたみ込むように言う。
大道具と役者の身のこなしで魅了されるシーンもある。大詰、極楽寺の大屋根で木っ端役人複数との大立ち回りに菊五郎の運動神経のよさ、身軽さを知った。大屋根が後ろに90度倒す「がんどう返し」。屋根が傾く直前、菊五郎は急勾配を下に向かって足もとを見ず小走りに歩む。客席最前列にいると危険度が伝わり、冷や冷やした。
初演は文久3年3月(1863 市村座)。江戸末期の歌舞伎は伝説となった役者が多くいた。5代目菊五郎、9代目団十郎は写真となって残っているが、絵師たちが描いた役者の錦絵は貴重な遺産。
明治時代になっても江戸時代の風をなびかせる庶民はおおぜいいた。明治生まれの親を持つ世代もかすかに江戸の風を運んできたろうけれど、戦後世代は祖父母に対して江戸期の面影をみるだけとなった。
歌舞伎は、特に「弁天小僧」や「切られ与三郎」などの世話物に江戸時代の空気が立ちのぼる。ところが、そういう演目をやれる役者が激減し、若手役者がやっても時代の空気を感じさせてくれない。弁天小僧は7代目尾上菊五郎、切られ与三郎は15代目片岡仁左衛門が最後の歌舞伎役者だ。
20世紀も終わりに近づいたころ、テレビ番組「スタジオパークからこんにちは」(放送は生=リアルタイム)に菊五郎がゲスト出演したさい、放送時間が残りわずかとなったとき、司会者(堀尾正明)に「一番気に入っているセリフは何ですか?」と尋ねられ、数秒考え、「色にふけったばっかりに」(仮名手本忠臣蔵の勘平のセリフ)とこたえる。
勘平はいまわのきわに言ったが、菊五郎は舞台で実人生を生きている。菊五郎の真骨頂だった。歌舞伎の全盛期をきずいた役者のなかで菊五郎と仁左衛門、故中村勘三郎は別格である。彼らにしかできない役を持ち、時代の風情を体現した。
弁天小僧の末路は悲愴。世に盗人の種は尽きないとしても、黙阿弥は勧善懲悪の世界に華やかさと美を持ち込み、役者が舞台に反映する。芝居がうまくないと胸に響かない。白浪五人男のなかで最も見せ場のあるのは弁天小僧だ。女装がばれて開き直る場面は大きな見どころ。
「弁天小僧」の歌詞が心に残ったのは、セリフのイキのよさ、おぼえやすさで、子どものころ「弁天小僧」は因縁話と知り、末路を知っていたらさぞショックだったろう。
時代劇の主人公になった人物は英傑か罪人だ。あるいは英傑と罪人を兼ねる者だ。英傑は表舞台で活躍する。表舞台で頭角をあらわしても罪人は結局、表舞台からすがたを消す。裏街道を歩き美しさを失わない者にかがやくときが訪れる。
「知らざあ言ってきかせやしょう」は巷間伝わる歌舞伎の様式美ではなく生活美である。日常生活のなかに見いだす美は色あせない。
70年前のことは時間の経過とともにほとんど忘れてしまった。しかし美しかったものは記憶にとどまる。老年のかなしみを知らなかった子どもは弁天小僧のせりふにかっこよさだけでなく美を見たのだ。
「歌舞伎大道具師」(釘町久麿次 青土社) 「極楽寺屋根上から遠山桜に」 (がんどう返し)

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