2019年7月25日      赤ひげと螢草(一)歌舞伎との関連
 
 山本周五郎原作の「赤ひげ診療譚」は映画「赤ひげ」(1965 監督黒澤明)として上映され、テレビドラマにもなっている。テレビドラマ(脚本倉本聰)は1972年10月より1年間にわたって放送された。最近も放送されたが、映画とテレビ初のドラマ「赤ひげ」がすばらしい。
 
 歌舞伎のガラとニン。映画の主役三船敏郎のがっしりした体躯、無骨で仏頂面というガラ。寡黙だが、ここぞというとき必要な弁、いざとなれば腕もたつことを隠せるニンがうってつけ。
小林桂樹は映画・サラリーマンシリーズや、山下清をモデルにした映画「裸の大将」の印象が強いのでどうかと思ったが、昔の俳優はさすがに芝居がうまい。ガラの不足をニンで補っている。
 
 歌舞伎の型は単なる形式ではなく、可能性の集積であり、磨けば磨くほど性根があらわれ、人間が深くなってゆくと言ったのは誰であったか。性根とは或る人間の存在に不可欠な精神の所在であり、存在すべき根拠である。ことばではない、黙っていてもそれとわかるのだ。
 
 時代劇映画は歌舞伎の型の模倣にはじまり、時代劇俳優は歌舞伎役者のせりふ回しを参考にし、独自の工夫を加えた者が銀幕のスターの階段を上がっていく。大河内傳次郎(1898−1962)、阪東妻三郎(1901−1953)、嵐寛壽郎(1902−1980)、長谷川一夫(1906−1984)など。
 
 無声映画全盛期には尾上松之助(二代目 1875ー1926)、澤村四郎五郎(1877−1932)など元歌舞伎役者が一世を風靡した。歌舞伎と縁のなかったのは大河内傳次郎だけだが、歴史の勉強ではないので詳細は省略。
何が言いたいのかわからない人に向けて言うと、戦前、映画の時代劇をやれる俳優は歌舞伎役者しかいなかったということで、新派も新劇も出る幕はなかった。「芝居」といえば歌舞伎のことだった昔の話である。
 
 1965年「赤ひげ」で注目されたのは香川京子(1931−)と二木てるみ(1949−)。そして桑野みゆき(1942−)。香川京子はすでに演技派スター女優だったが、撮影当時15歳の二木てるみがうまかった。
心を病み猜疑心の強い、しかもプライドが高い、統合失調症のように複雑だが、あることがきっかけで突然やさしくなる役を演技過剰に陥ることなくやりぬく。
 
 桑野みゆきは「赤ひげ」出演の5年前に清純派から脱皮して、現代劇・時代劇双方で難しい役をこなすようになっていた。
共演者は志村喬、藤原鎌足、土屋嘉男などいわゆる黒澤組のベテラン俳優に加えて笠智衆も出ていた。
ほかに田中絹代、杉村春子、柳永二郎、左卜全ほかの芸達者が脇をかためた。カタカナの「ト」と読むのではない、「ボク」である。剣聖と謳われた塚原卜伝を少年期に知った人はボクと読む。
 
 倉本聰脚本の「赤ひげ」。土屋嘉男の役を有川博がやっており、自然な演技で腕のいいところをみせた。医師役の柳生博はガラが合っている。脇は中村伸郎、小鹿番(1932−2004)がいい味を出した。
小鹿番で思い出すのはミュージカル「ラ・マンチャの男」のサンチョ・パンサ役。九代目松本幸四郎(現・白鸚)のドン・キホーテと互角の芝居をして客をひきつけた。
 
 歌舞伎の幸四郎は「河内山」(宗俊)、「鈴ヶ森」(幡随長兵衛)をやれば傑出しているが、ほかの役はたいしたことはない。が、ラ・マンチャの男は幸四郎生涯の当たり役。サンチョは農夫でドン・キホーテの従者。教養はからっきしないが、ときおり機知に富んだことを言う三枚目。役者は相手役にめぐまれて真価を発揮する。
 
 新人・仁科明子が、演技はたいしたことはないのに頭角をあらわす。いい役をもらった紅景子が冴えず、仁科を引き立ててしまう。そんなことは言われなくてもわかっていたろう。が、言われなければ見えないこともある。
仁科明子は岩井半四郎(十代目)の娘だ。岩井半四郎は五代目から八代目までが大名跡。江戸時代後期〜明治初期に活躍した名女形。
 
 明治末期から昭和初期まで歌舞伎座の首座を占めた五代目中村歌右衛門は当初、半四郎(八代目)の養子となるべく楽屋を訪ね、顔をこしらえていた半四郎に「気持ちわるい」と言ったそうである。結局、四代目中村芝翫の養子になり、児太郎〜福助から歌右衛門を襲名する。
 
 よかったのは望月真理子(1950−2000)。フレッシュな面立ち、地味な役だが演技を感じさせないところが印象的。
演技は結果である。自らを正当化できるかできないかは野党と学者、一部の新聞の主張するところであり、役者は政治家と同じで結果がすべて。判断は客がおこなう。結果を出すには、正当化するための言い訳をくどくどするのではなく、性根を入れて工夫せねばならない。
 
 不信と不寛容が蔓延し、それをあたりまえのごとく受けとめるこんにち、そうじゃない、そんなのはふつうじゃないと言う人は減りつつある。映画もドラマも、現代が舞台であれば人間の信頼や寛容は隅に追いやられる。そんなのはウソくさいとでも言わんばかりに。評を書く人間までもが不信と不寛容を描く映画を讃える。
社内会議じゃあるまいし、旧友の集まりにおいても、平均的意見を述べておかないと自分が社会的排除にあうかもしれないと、煮え切らない人間がいる。平均的意見を言うことで自分を守っているのだろうけれど。
 
 時代劇は、不信とか不寛容を正当化する21世紀の風潮をテーマとせず、人情、親切、勇気など古き良き時代に生きた人間を俳優に仮託する。人情や勇気を自然に表現するのは容易ではない。ダイコンでは芝居にならないのだ。
 
 舞台劇をみて一体感などときいたふうなことをいう人がいる。舞台でもレストランでも「マジ、ヤバイ」(Very Good)で事をすませるいまどきの人々にとって、うまいヘタはどうでもいい。
一体感を得さえすればということなら、上野動物園へ行き、サル山という名の野外劇場で一体感を得ればいい。客の息を自分の息に合わせてしまう役者によって体得するのが一体感である。サルを見物して一体感を得られるなら、日本中は一体感の坩堝である。
 
 昔の女優は、香川京子もそうであるし、役づくりが思うようにできなくて悩んだ。悩んでもなかなかうまくいかずまた悩んだ。当世は楽しめばいいと言う。本気で思っていないかもしれないが、平気で言う。ヘタでもだいじょうぶ、俳優の芸が落ちても、みる側の目も落ちたから。
 
 戦後に輩出した歌舞伎役者のなかで最も研鑽を積み、工夫をこらしたのは三代目市川猿之助だ。梅原猛に脚本を依頼した「ヤマトタケル」を猿之助は練り直し、演出も自分が手がけ、スーパー歌舞伎と銘打って「新橋演舞場」で開演。ときに1986年2月のことである。
いったん歌舞伎からはなれていた私は、猿之助のヤマトタケルをみるため大阪新歌舞伎座へ足を運ぶ米子の伯母が不思議でならなかった。後年、平成5年(1993)12月・南座顔見世でみた猿之助の「吉野山」(義経千本桜)の狐忠信に感動した。いや、感動というのではない、仰天した。
 
 静御前の鼓はキツネの母の皮をつかって作られた。子ギツネは鼓を奪いたくて、義経の随身・佐藤忠信に化け、静のそばに付き従い、いま吉野への道中にいる。猿之助の発するせりふ、顔、両手指の動き。キツネそのものである。
知らない人は手と指くらい取るに足りないと思うだろう。手指がキツネになっているのは猿之助ただ一人、菊五郎でも狐忠信をやると時々ネコになる。勘三郎はほぼネコ。顔はどうにかなっても手と指の動きは‥。それくらい難しい。
 
 猿之助の講演は大阪中座ほかで2回ききにいった。猿之助が提唱したスーパー歌舞伎の3S=スピード、スペクタクル、ストーリーの3要素を盛り込んだ経緯を明かしてくれた
ヤマトタケルを最も多くみたのは、宝怏フ劇団の演出家および研究生だという話もしていた。しかし、みるとやるとは大違い。演出家・役者としての格が違いすぎる。屋台崩しをはじめとする大道具の見せ場も猿之助考案。彼の独創が新劇やミュージカルなどの舞台装置と美術に与えた影響は計り知れない。
 
 ラッキーだったのは、スーパー歌舞伎のほとんどが大阪松竹座で上演されたことである。伴侶と共に「カグヤ」、「オオクニヌシ」、「八犬伝」、「新三国志1〜3」などをみた。「伊達の十役」は、猿之助最後の公演になるかもしれない予感がして歌舞伎座へ行った。米子の伯母の気持ちがよくわかった。
十役早替わりを間髪入れない早さでおこなうのはタイヘン。花道すぐそばの席であったのが幸いし、花道下で猿之助が猛スピードで走る足音が聞こえた。衣裳とカツラなどを替え、スピーディに揚幕から再登場するには思い切り走るしかない。それを25日間つづけるのだ。
 
 猿之助の活躍はスーパー歌舞伎のみではない。舞踊にも秀でており、古典歌舞伎の類では、弟・市川段四郎との舞踊劇をはじめとする猿翁十種(猿之助の祖父が得意とする舞踊劇十種を猿之助が定めた)のうち「黒塚」、「二人三番叟」、「吉野山」は今後も上演されつづけるだろう。
「黒塚」は奥州・安達原(あだちがはら)の鬼婆。鬼婆の踊りは妖しい振りだけでなく可憐な娘時代にもどる振りもあって変幻自在。三代目市川猿之助は不世出の舞踊の名手であると思わせるすばらしさ。
 
 「黒塚」とは別の「奥州安達原」もよかった。その「一つ家」の場は、茫々たるすすきが生い茂る荒野に佇む一軒の古民家。そこに都から駆け落ちした若い男女がやって来る。一つ家に住む老婆・岩手(猿之助)は安倍貞任・宗任兄弟の母だが、岩手こそ安達原の鬼婆。
「一つ家」の前、「袖萩祭文」(そではぎさいもん)の場で、女形市村萬次郎は、いるだけで気品と深まる秋の風情をなびかせていた。口跡のよさは父市村羽左衛門(17代目)譲りだが、その場のせりふ回しはかぎりなく澄んだ秋の空。いい役者は季節の風さえ運んでくる。
 
 
 歌舞伎は型の芸術である。役者は、奈良・京都の仏師が様式にこだわったように型に拘泥し、型を後輩や子に伝える。後世の役者は先輩から学んだ型に工夫を加え、営々と型および創意工夫が繰り返され、練り込まれる。終わりも統合もない継承の世界。人間が深くなってゆく所以である。
 
 映画やテレビドラマに出演する俳優。古き良き時代、歌舞伎役者の猛烈な精進、研鑽。工夫を取り入れたいという志があった。「志を高く」は彼らのプライドにほかならなかった。1970年代、1980年代、テレビドラマといえどもその志はあったようにみえる。「赤ひげ」にみられたような時代劇の活力を失ってはならない。
 
 現代の若い俳優に型をもとめるのは至難。型の背景にある心、春のうららかさ、秋の清々しさを心におさめ、季節感を存分に表現できる役のハラ(肚)を体得してもらいたい。春の山野、秋の枯れ野をさまよい、長閑(のどか)や寂寞のなんたるやを経験すべきである。
おぼろ月の朦朧、満月の皓々たる明るさ、残月の名残惜しさをじっくり見る。そのときの心象が芝居のワンシーンに生かされるのだ。先達が悩みながら工夫したように工夫の下地を養う。工夫する俳優は古株にも若手にも僅少だけれど存在し、そういう人たちにより時代劇は保たれ、将来の展望も拓けるだろう。

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