2019年7月29日      赤ひげと螢草(二)
 
 昭和20年代後半、実家に80坪ほどの畑があって、戦時中宮崎県に疎開し農業をおぼえた祖父のために父が用意した。畑には祖父がニワトリ小屋を建て、ナスビ、トマト、キウリなど夏野菜、ビワ、イチジクを栽培していた。ニワトリは20羽ほどいて、タマゴ採りが私の役目だったことは以前どこかに書いた。
 
 畑にはカンナ、ダリヤ、矢車菊なども植えられていた。カンナのあざやかな朱色は幼いころの思い出の色だ。
しかし何気なく歩道に咲く草花をみるときも、昔日を追懐するときも、ことあるごとによみがえるのは「ツユクサ」だ。ほかの花が季節をひとり占めするかのように咲きほこっても、畑の隅でひっそり咲く小さな青いツユクサ。
 
 6月から9月の朝咲いて、正午を過ぎるとしぼんでしまう。朝露や雨に濡れると美しい。古来「月草」と呼ばれてきたが、「螢草」の別名があるのは、花弁のかたちが似ているのと、ホタルのようにはかない命であるからだ。
 
 ツユクサと同じような青色の花はヒマラヤン・ブルーポピー。イングランド湖水地方アルズ湖北東部ペンリスの7キロ南西「ダルメイン」(Dalemain)の初夏の庭に咲く。ヒマラヤン・ブルーポピーは長野県大鹿村「大池高原」で6月中旬〜7月中旬の2週間に咲き、幻の花と呼ばれる。
ダルメインのヒマラヤン・ブルーポピーはダルメインと名づけられた。栽培の成功は魔法の粉をふりかけたという意味があるのだろう。期間限定ということもあって目当ての観光客も多い。たしかに美しいが、ツユクサほど忘れがたい花ではない。
 
 子どものころツユクサに惹かれたのはなぜか自問した。アサガオも畑の隅にあった。真夏の早朝の色水遊びは午前8時、草野球にさそわれるまでのたのしみ。ガラスコップ5個の水に5色のアサガオが溶け、透きとおった水色、薄紫、青紫、赤紫、ピンクの色水になってゆく。
いきなり溶けるのではない、自分を惜しむように溶けだし、濃い色のゆらゆらした生きものは次第に沈み、透明な水にまざりあう。きれいだった。単純な遊びなのに飽きない。それでもツユクサの魅力に及ばなかった。
 
 数ヶ月前、7月26日に時代劇「螢草」がスタートするという情報を得た。タイトルと主演俳優でみようと決した。
「あさが来た」で京都の豪商今井家(三井家がモデル)の女中役をやった清原果耶が主役。年端のいかない、幼な顔が残る女中が出てきた瞬間これはと思った。奉公に出された女中のハラと目を持っていたからである。
 
 「螢草」の主人公菜々を演じる若手・清原果耶(17歳)の大柄すぎず小柄すぎない体つき、目力の強くない卵形の面立ち、楚々たる雰囲気は時代劇むき。この若さで縦縞の着物を着こなしている。
紺地に緋色の縞。素材は庶民の着る木綿、いわゆる縞木綿。問題はこの若さで時代劇の主役をこなせるかどうかではなく、役を生きることができるかである。ダイコン女優が時代劇の主役をやるのは、いまにはじまったことではない。
 
 いつのころからか、情にほだされ行動することを否定する風潮が趨勢を占めた。人の情は感情の情とみなされ、感情は理知に劣り、「なさけ」より理性、理知を重視すべきと考える人が増えた。
神世の昔から理知と感情の相克はあり、どちらを優先するかは難しい。古事記を読めばわかる。集団の利益と称して集団を踏みつけるのは個人の判断である。情を犠牲にして不思議と思わない風潮に待ったをかけるのが時代劇だ。
 
 清原果耶は録画撮り後のインタビューで語っている(7月24日毎日新聞夕刊)。「菜々の健気さは演じる上ですごく大切にした部分です」。それは誰もがそう心がける。難しかったのは、「時代劇の所作と菜々の感情をいかにマッチさせて表現するか」。それもたいていの主要人物をやる俳優が考える。彼女の工夫は次の点に顕著である。
 
 「螢草」第一話スタートの約3分後、素振りをする市之進(奉公先の若い武家)の凜々しい後ろ姿を見て、思わずしゃがむシーン。両膝をつく演出であったそうだが、「折り目正しい武家の出ということをあらわしたい」と、片膝をついて姿勢を正したまましゃがむ動作が採用されたという。「菜々を一番理解しているのは私。役として絶対にうそがないよう演技しよう。常にそう心がけていました」。
 
 第一話の清原果耶はまずまず。期待以下でも期待以上でもなかった。伸びる人は回を経るごとに上達する。彼女がどうなるかは知らない。
脚本に書いていないセリフを言う(歌舞伎の「捨て台詞」)、演出されていない振りを入れる(同「入れ事」)といったことも随時おこなう。ただしムダな動きは避けねばならない。そこは自己判断。演出家かならずしも有能とはかぎらず。花が美しいのは、自然にはムダがないからだ。
 
 歌舞伎草創期から戦前まで演出家は存在しなかった。台本作者が歌舞伎役者にあてて台本を書き、役者は自らの工夫で演出し、役をこしらえる。役者は演出家を兼ね、日々工夫の連続。うまい上に、役づくりに秀でた者が喝采を浴び、贔屓客が役者の格付け一覧表を作成する。
 
 歌舞伎公演の狂言名(演目のこと)の横に「演出」(おおむね歌舞伎役者)と記されるようになったのはせいぜい25年前からである。新劇は当初から演出家がいた。宇野重吉や滝沢修などの劇団創設者、あるいは中心人物が演出を担うこともあったが、蜷川幸雄のように売れない俳優が演出家に転出することもあった。
 
 名をなした歌舞伎役者は工夫の人である。初代澤村宗十郎、初代尾上菊五郎、初代中村仲蔵(1736−1790)。二代目市川左團次、六代目尾上菊五郎。三代目市川猿之助、十五代目片岡仁左衛門、五代目坂東玉三郎など。
 
 仲蔵の人生は数奇というほかない。色子という噂が行き交うなか舞踊に励み、初代中村富十郎が得意とした「娘道成寺」を当たり芸としたが、仲蔵の名を知らしめたのは「仮名手本忠臣蔵五段目・山崎街道」の斧定九郎の黒羽二重。
 
 三代目中村仲蔵著「手前味噌」に、仲蔵が衣装代に一興行の給金をすべて費やし、客は衣裳だけみても値打ちがあると噂したという話が載っている。松竹が歌舞伎を仕切る現在とちがい、衣装代は役者持ちだった。
明和3年(1766)9月の市村座の狂言が「忠臣蔵」と決まり、仲蔵に定九郎役が回ってきた。従来の定九郎に工夫をこらそうと考えてもいい知惠は出ない。芝居初日が明けるまでに何とかせねばと、信仰していた柳島(墨田区から江東区の地名)の妙見へ日参、精進潔斎して願をかける。
 
 「手前味噌」には従来の定九郎のいでたちを、「山岡頭巾に大縞のどてら、丸ぐけ(芯に真綿を入れた帯締め=紐)の帯、紐付ももひき、重ねわらじという拵えにて」とあり、仲蔵がそれをどう変えたかについて、柳島・妙見さん日参帰りの経験を記している。
 
 「本所の南割下水の辺まで来懸りし頃、ポツポツ大粒の雨が降ってきたなと思ふうち、夏の日の常なれば大夕立となり、(中略)傍らの蕎麦屋へ駈け込み、蕎麦でも食って時間をまつうちに、(中略)ずぶ濡れにて蕎麦屋へ駈け込む三十四五とも覚しき浪人にて、破れた蛇の目傘をさし、黒羽二重の単物(ひとえもの)を着て、肩の出るまで腕まくりし、裾をからげ、茶小倉の帯へ朱鞘の大小落しざし、くすべ(燻べ)の鼻緒の雪駄を腰にはさみ、傘の雫をふるひ、かたへに立てかけ、五分の月代(さかやき)に水が含みしを、(中略)向こうに腰をかけ蕎麦をくふ」。
 
 祇園から与市兵衛(お軽の父)を追い、刺し殺し、縞の財布に手をつっこみ小判を数える。定九郎のせりふはひとこと、「五十両」。夜の深淵に残忍さと絵画的美しさがぼぉ〜っと浮かぶ。仲蔵大当たりの定九郎である。雨宿りの浪人の衣裳と素振りが定九郎に生命の息吹を吹きこんだのだ。仲蔵はそう思ったにちがいない。
 
 以上は「手前味噌」の記述による。が、「江戸演劇史(下)」(渡辺保著)には、「四代目団十郎は一門を集めて修行講という研究会を開いていた。仲蔵は一門ではなかったが出席していた。その席上で五代目団十郎がこの案を出した。
(中略)それを覚えていた仲蔵は定九郎の役が廻ってくると、五代目団十郎のもとを訪ね、あの案を自分に下さいと頼んだ。成田屋の芸風と異なる定九郎は自分にできないからと快諾し、仲蔵の新演出が実現した」とあり、五代目団十郎が2代目・劇神仙(長島寿阿弥 1769−1848 歌舞伎作者)に語ったとされる。
 
 学者ではない、真相探求は二の次ゆえ一説を紹介するのみ。重要なのは、驟雨の浪人か一門の修行講かではなく、工夫を舞台に持ち込んだのは仲蔵であり、芝居がおもしろくなり、客が満足すること、すなわち結果を出すことである。
 
 仲蔵考案の衣裳であるとして、芝居を引き立てるのはその時々の役者だ。2006年1月松竹座。夜の闇と人殺しの二重の闇。定九郎はただの盗人ではない、与市兵衛を執拗に追い、夜もふけ人影の途絶えた山間で襲い、まんまと五十両をせしめる。黒羽二重、朱鞘が微かな照明に映し出され、夜はいっそう深くなる。そこで「五十両」。愛之助の定九郎が出色。どうせ遊ぶ金欲しさだ、衣裳、小道具にしても遊び人と客がわかるこしらえが要る。
 
 勘平のためにお軽は祇園の遊女となり、金を持ち帰る途中で父親は殺され、鉄砲の弾が義父に当たったと早とちりした勘平は腹を切って死ぬ。残忍さと対照的な夜の一瞬の美しさゆえ、お軽一家の悲劇が切実となる。
 
 役者が何から学ぶか予測しづらい面はある。役を生きるのは人間の一生を生きるのとちがい、一寸を一丈のごとく大事に生きるということである。何気ないことからヒントを得るのも経験をおろそかにしないからだろう。
芸の神が微笑むのは一瞬だ。余人が気にも留めない束の間の出来事は螢草に似てはかない。しかし劇神に憑かれたかのようなすばらしい芝居をするのは、束の間を記憶し、工夫をこらす役者なのかもしれない。
 
 
                 ツユクサ(別名 螢草)


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