2025年6月14日、ドラマ「天城越え」が放送された。1978年、大谷直子主演のテレビドラマ「天城越え」をみて愕然とした。キャスティング、脚本、ストーリー展開に目が釘付けになった。
清張の原作でこれほど熱心にみたのは「砂の器」以来だ。すぐれた役者は演じる人物の過去が脳裏に浮かんで彼らの表情、動作をみることができ、芝居に生かす。口先だけでせりふを言うタレントとの違いはそこにある。
1978年の「天城越え」の出演者は、娼婦・大谷直子と出会って峠を歩く家出少年を鶴見辰吾。荷物を持って峠を登る土工に佐藤慶。事件捜査に当たる刑事の30数年後を中村翫右衛門(かんえもん)。ほかに宇野重吉、玉川良一。
修善寺温泉の娼家から足ぬけしてきた大谷直子と出会い、天城トンネル手前で別れるまでの少年の芝居が出色。誘いに乗って娼婦を買い、思ってもみない結末をむかえる佐藤慶の存在感のある芝居もいい。
中村翫右衛門が時効を過ぎた殺人事件の犯人を探し出し、関係者の動機、真相を探る1978年作「天城越え」は単発ドラマの秀作。和田勉が制作に携わったことも大きい。性に目覚める少年のどきどき感を自然に演じた鶴見辰吾。
2025年の「天城越え」で目を見張ったのは主役・生田絵梨花の好演。名前も顔も初めて見た。テレビドラマ「アイドル」の主役・古川琴音のように。生田絵梨花はミュージカルでは名の通った演技派女優らしい。
現代的なマスクなので時代劇には向いていないと思うが、大正15年を時代背景とした「天城越え」はぎりぎりセーフ、どころか、大谷直子にせまり、1983年公開の映画「天城越え」で娼婦役をやった田中裕子より役のハラをつかんでいる。
親に12歳で売られた少女は吉原で女中見習いとしてはたらき、14歳で客をとらされ、20歳を過ぎるころ熱海の宿屋で仲居をやり、その後、伊東で酌婦として働き、修善寺に流れついた。その経歴を言うとき、当時の自分を思い描く表情になっている。暗い過去を背負ってきたが、つぶされはしなかった。少年と出会い、人間として接した時間は値千金なのだ。
つらい日々を過ごしたから陰気になるわけではない、陰気なのはその人間の性格である。娼婦は逮捕され、下っ端刑事(波岡一喜)に厳しく追及されても無実を主張しつづけ、投げ槍にならない。陰気にもならない。
大声で詰問する刑事と同じように叫ぶのは単なるバカである。追及され頭に血がのぼっても、自分はやっていない、いつか疑いは晴れる、だから自分を信じるしかないという気持ちが要る。その上で声高になる。意味もなく声を荒げているのではないのだ。こういうシーンは演じるのが難しい。
底辺を這い回ってきた人間でも固定観念や先入観にとらわれてはならないという見識がある。それに較べて刑事は、娼婦だから人のものを盗んだり、殺しもやりかねないと決めつけてしまう。
巷間、「自分を信じるしかない」と言う者はいる。しかし娼婦とは大きな違いがある。誰が彼女を信じてくれるのか。彼女が誰を信じられるのか。そのような人のいない人生、信じることのできるのは自分だけである。
チャレンジャーの常套句、失うものは何もない。バカを言うな。親兄弟、住む家、友人、お金など、失うものはいっぱいあるだろう。娼婦はそのすべてを持っていないのだ。
娼婦と歩いていたという目撃証言を得て警察署に連れてこられた少年が娼婦に対面する。その後、無実を訴え続けてきた女は乾坤一擲、前言を翻し「わたしがやりました」と言う。少年はその経緯を知らないまま警察署を出て家に帰った。女がその後どうなったかも知らない。
生田絵梨花のインタビュー(NHK)から抜粋する。「当時の時代背景を調べたり、天城トンネルに行って裸足で歩いたりもしてみたのですが、そんな経験が、自分もこういう時代に生まれてハナ(娼婦)と同じような境遇にあっていたら、同じような選択をしたのかも、と自分事としてハナの人生を考えることにつながったかと思います」。
少年が警察署に呼ばれて30数年が過ぎ去った。静岡の小さな町で小さな印刷工場を経営する男(萩原聖人)のところに刑事(岸谷五朗)が訪ねてくる。表向きは資料印刷の依頼なのだが、そのなかに天城峠で起きた事件の資料もあった。
刑事は事件のあらましを語りはじめる。経営者の記憶がよみがえり、刑事の話を聞いて追懐する。そしてともに歩き、語り合った、忘れられない女の姿が浮かびあがる。岸谷五朗の話に耳を傾ける萩原聖人の表情がいい。
娼婦が逮捕されたのは、娼家から逃げて天城越えをしたとき土工に会ったこと、彼女が宿で支払った50銭玉2枚が土工の硬貨と同じ特徴を持つという証言、氷蔵(こおりぐら)で見つかった足跡の9文半というサイズが女の足だとする警察の単純ミス。
起訴され裁判にかけられた女の判決は無罪。警察は凶器を発見できず、土工に1円(50銭2枚)で身体を売ったという女の言い分も認められた。
生田絵梨花は食べるシーンも堂に入っている。天ぷらそばのエビ天をしっぽ近くまでパクリといく。その一コマに工夫が感じられる。少しずつずるずるというふうでなく、結構な量を箸でつかみ一気に食べる。
昔、松山政路が言っていた。そばを食べる場面を上手に見せるのって難しいと。山田五十鈴は演出家に言うのだそうだ、食べるシーンは出ないわよ(出演しないの意)。
真犯人を突き止められず捜査はストップ。しかし担当刑事のひとり(岸谷五朗)は事件を追い続けた。印刷工場の経営者は、女はどうなったのか、どこにいるのか刑事に問い、刑事はわからないとこたえる。わかったのは女の本籍地だけだった。
ラストシーンの若村麻由美の芝居は胸にせまる。元少年は女の郷里へ行き、雑草を刈る彼女に会った。女は少年をかばっただけではない、少年の罪をひっかぶった。なぜか。それが明らかにされる。
一緒に歩いたことで少年を巻き込んでしまった。警察署で対面したおり直感的に少年の犯行と感じたが、将来のある少年を救わねばならない。出口の見えないトンネルのなかにいた女は少年を救って出口を見つけた、
「天城越え」というタイトルにこめられたかもしれない清張の思い。娼婦は天城峠で人間らしい心を示してくれた少年の未来を信じたのだ。小さな喜びをもらって大きな峠を越えたのだ。彼女の本懐はそこにあってほかにない。
名作の運命は人間の思いもかけない犠牲や決断による。犠牲と決断が名作を生む。娼婦は犠牲になることで少年を開放し、自らを解き放ったのだ。「生まれつきついていない人はついている人の足を引っぱっちゃいけないんですよ」と言った若村麻由美の清々しい顔がそのことを物語っていた。
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