2019年8月15日      とおりゃんせと文七元結(一)

 
 人情時代劇「とおりゃんせ」はみているうちに淡々と、切々と、ほのぼのした感じが伝わってくる。質素な庶民生活を描くドラマの登場人物は宵越しの金は持たず、まとまった金の使い方を知らず、金はお足と考えている。いまどきの人に説明すると、足があるから逃げるという意味だ。
 
 狭い長屋住まいでは、小金ができても箪笥の引き出しとか壷のなかに隠しておくしかない。壁に穴が開いており、隣の壁とのすき間に小銭を置いて盗まれるという映画を昔みたような記憶も。
 
 ありふれた中流家庭に育ったけれど、貧乏と言われるのも他人を貧乏と言うのも恥だと思った。おとなになって、貧しくもないのに貧乏性の人間は好きになれず、貧乏性にケチが上乗せしたような人間はさらに好きになれなかった。節約は意思、貧乏性は性質。性質はなかなか変わらない。
 
 江戸には表通りの両側に町屋敷があり、町屋敷と町屋敷のあいだの狭い路地を入ると裏長屋が並んでいた。「表通りに面した商店の屋根は瓦葺き、外壁は耐火性のある土壁。裏長屋の屋根は粗末な板葺きで、四畳半または六畳ひと間にかまどと流しが置かれていた」(小学館「江戸時代館」)。
 
 裏長屋の住人(店子たなこ)は商家の奉公人、大工・左官、棒手振り(天秤棒をかついで魚などを売り歩く)、浪人ほか。昭和20年代後半、天秤棒を肩にかけ魚や観賞用金魚を売り歩く男を何度も見た。「キンギョ〜え〜、いらんかな〜」と独特の声をあげ、絶妙のバランスをとりながら天秤棒をかついで歩く。
リヤカーで豆腐を売りにくる男、物干し竿を売る男(「物干し竿の交換」もの〜ほしざお〜のこ〜かんと叫ぶ)は昭和30年代前半までいた。竿はむろん竹製。江戸時代の名残は1950年代までつづいていたのだ。
 
 天秤棒の魚売り、リヤカーの豆腐売りは金魚売りや物干し竿売りとちがって真っ昼間から出てこない。夕刻が近づき裏通りが落ち着いたころ、いずこともなくあらわれる。江戸時代はリヤカーのかわりに大八車をつかっていたろうけれど、なに、金属製か木製、たいしたちがいではない。
 
 「江戸商売絵図」(三谷一馬著 中央公論社)を紐解くと、天秤棒稼業は私の子ども時代すでにすがたを消していた大福餅売り、菖蒲売り、茶飯売り、麦飯売り、野菜売り、浅蜊売り、海苔売り、塩売り、煮豆売り、白酒売り、汁粉売り(夜間のみ)、桜草売り(春のみ)、すだれ売り(初夏)、白玉売り(夏のみ)、ござ売り(盛夏のみ)、箒(ほうき)売り、変ったところでは絵馬売り、太鼓売りなどの絵が載っている。
 
 子どものころ玄関先に来た正月の獅子舞は新年気分のみならず時代劇気分をもたらし、週に数度、天秤棒をかついでやって来る棒手振りは江戸時代の面影を運んできた。
山本周五郎、北原亞以子(「とおりゃんせ」の原作者=「深川澪通り木戸番小屋」)もそういう人たちを見ている。江戸時代の風をなびかせる物売りが往来し、記憶が昔をよみがえらせ、筆を走らせる。古き良き時代を体験した人間は年々すくなくなっている。
 
 江戸の長屋と京都の町家との違いは、歴史の古さもまったく異なるけれど、「町家は隣家と軒を接して建ち、長屋形式ではない」(高橋昌明著「京都千年の都の歴史」)ことで、11世紀後半、京都の居住区には現在に至る小路が多くみられ、「油小路、針小路、塩小路、錦小路、綾小路など手工業生産品の名をもつ小路名も発生した」。
 
 京都は東西北の近隣を山に囲まれ(南はやや遠く少ない)、切り出して運ぶにしても手数が少なく、質の良い材木が多かったので、平安期の町家の屋根は切妻造、600年後の江戸期の長屋屋根に較べて造りもよく、長もちした。町家の多くは見世、すなわち店。
京町家の「内部は片側を土間、もう一方を板敷きとした。土間に設けた戸口には板戸を立てる。板敷きの表側に窓を開き蔀(しとみ=半蔀はじとみ)を釣った。窓に棚を作って商品を並べる。店は見世棚の略である」(「京都千年の都の歴史」)。
 
 江戸の表通りの両端には、「町木戸と自身番屋・木戸番屋が治安維持のために設けられた。また、道の両側8ヶ所に火の用心井戸が設けられ、神田上水・玉川上水の水が供給された」(「江戸時代館」)。
「町木戸の両脇には町木戸をはさむように自身番屋と木戸番屋が建つ」とあり、時代劇「とおりゃんせ」(1995.Sep-1996.Mar)は木戸番屋に住む夫婦が主人公。※自身番屋の横には「枠火の見」=ハシゴで登る火の見ヤグラ=がある※
 
 「澪つくし」(原作第五作目)の解説で竹内誠(当時「江戸東京博物館館長」)が、「とおりゃんせ」の放送用台本のナレーション部分の抄出として、「江戸の通りは町ごとの境に造られた木戸でしきられていた。(中略)
夜10時ごろになると木戸は閉ざされ、通行人はくぐり戸から入り、木戸番が付き添って次の町まで送り、その町の木戸番に引き渡す。(中略)朝6時ごろ日の出を待って木戸を開ける」と紹介。
 
 北原亞以子の「深川澪通り木戸番小屋」(第一作目)冒頭に、「夜になると、川音が高くなる。深川中島町は三方を川でかこまれていて、木戸番小屋は町の南を流れる大島川沿いの、俗に澪通りと呼ばれる道の端にあった。町の西側へ流れてくる仙台堀の枝川と、大島川が一つになって隅田川へそそぐところである」と記されている。
 
 木戸番小屋夫婦の笑兵衛とお捨。原作では53歳、49歳だが、1995年放送「とおりゃんせ」は年齢を引き下げ、44歳の神田正輝、36歳の池上季実子を起用したのが功を奏した。
暮らし向きなどものともしないお捨の小粋、ほのかな艶、庶民性、他人の哀歓をさりげなく真摯に受けとめるハラ、総じて江戸の風をなびかせる池上季実子の芝居が笑兵衛のやさしさ、寡黙、温厚、男ぶりを引き立て、神田正輝生涯の当たり役。
 
 木戸番小屋は四畳半一間(原作)。夫婦の生活は昼夜すれちがい。笑兵衛は夜、急用で来る医者や産婆などを通すため木戸を開けたり、夜廻が生業であるが、それだけでは生活不如意なので、四畳半の上がりぐち(原作は土間、ドラマは上がりぐち)を利用し手ぬぐい、ロウソクなどを置いて売り、笑兵衛は開店前に睡眠をとる。
 
仕事柄お捨ての近所づきあいは良く、しかし特に世話好きでもなく、近所づきあいが苦手な作家のあるべきすがたであったのかもしれない。
原作も味わい深いけれど、ドラマが原作を凌いだのは、自身番屋差配・弥太右衛門役「大木実」の好演と池上季実子のうまさによる。池上季実子はワンシーンから次のワンシーンに移る角々がさまになっており、相手のせりふを聞くときの目に情が感じられ、ふくよかと爽快を併せもち、ムダな動きがなく彩りも豊か。本を読み、これほどの色彩を感じるのは難しい。
 
 彼女のせりふ回しには定評があり、「それじゃ、濃いお茶でもいれてあげましょうか」とか、「いい加減になさい」、「やっと眠ったところなんですよ。一晩中起きている商売なのに、暑くて寝つかれないんですって。夏はいつも大難儀」とかのうまさをあげればキリがない。
ひとこと「お帰りなさい」と言うだけでしっとりした味をもつ池上季実子のせりふ回しは時代劇女優の手本。江戸弁も京都弁も自由自在。
 
 人情時代劇を制作しても、時代劇向きの中堅女優が不足し、今後輩出するかどうかわからない現況とあってはいかんともしがたい。現代劇の実力は十分あり、澄んだ目とすっきりした面立ちが時代劇に向いている多部未華子主演の人情時代劇を次世代育成の一貫として考えてみては。力をみるにしても、育てるにしても、まずは起用するほかないだろう。
 
            上の画像は京都御苑にある「拾翠亭」の四阿。本文と特に関連はありません。

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