2019年9月29日      時代劇ではないのですが池部良
 
 2019年9月2日スタートして9月23日まで、毎週月曜2話づつ計8話テレビで再放送されたドラマ「花嫁人形は眠らない」(1986)をみたのは、池部良と笠智衆が出ていたからだ。ほかの出演者でこれはと思ったのは加藤治子と、第7話に出ていた小林薫のみ。
 
 はたして池部良、笠智衆は予想に違わぬ出来で、主人公の娘2人の父親、祖父を演技を感じさせず完遂してくれた。特に池部良の娘をみる目、芝居の間が絶妙。
女房に先立たれて1年後、ふらっと寄った「おでん屋」の女将と深い仲になり、9年近く娘たちに隠しとおしていたが、ひょんなことから発覚、27歳の長女は父親の行状を半ば認めるが、20歳の次女は認めず、父親にも女将にも八つ当たりする。そういうときの池部良の当惑顔がうまい。娘を愛している表情はかくありなん、ほんとうの父子という感じが伝わってくる。
 
 次女は祖父(母の父親)に話し、祖父が寺の住職(父の将棋仲間)に話し、住職はほかの人に洩らす。父の行状に腹の虫のおさまらない次女は父と祖父の前で怒りをぶちまける。そこで祖父曰く、「公平君(池部)は1年だが、わしは半年だった。半年が1年に文句を言えるか」。せりふ回しといい、顔といい笠智衆ワールド。
 
 ドラマ、映画をみるのは学習のためではない、共感したり追懐したり、推理するためである。テーマがどうとか、一本スジが通っているとかいないとか理屈をこねまわせばドラマのおもしろさは半減どころか全滅する。感動もない、思い出すこともないドラマや、疲れるだけのドラマは途中で嫌気がさす。
テーマは制作側が考えるべきことだ。みる側は経験の深さ、人生の重さによって受けとめ方が異なる。国語教師じゃあるまいし、主題は一つに要約できるものではない。人によって感じ方が違うのは当然。
 
 親子ほどの年齢差のある私が池部良の出演作を初めてみたのは連続ドラマ「男たちの旅路」(1976〜82)。警備会社のガードマン司令補・鶴田浩二が主人公、池部良は警備会社の社長。問題を起こす若い部下について、司令補の処し方の是非について司令補と社長のやりとりがある。
池部良は大正7年、鶴田浩二は大正13年生れ。池部良が年齢も映画も先輩、共に昭和を代表するだけでなく昭和必須の俳優である。ふたりの共通点は太平洋戦争。
 
 池部良は見習士官から少尉となり1944年従軍、インドネシアの「ハルマヘラ島へ行ったのは1944年5月。1945年に中尉になって、翌年ニューギニアから栄養失調になって帰ってきました」(「映画俳優 池部良」)。
 
 詳細を述べると、中国山東省のある町に着いたのち、「夜な夜な古年兵殿からお呼びがかかり、『おめえ、役者だったってえじゃねえか。可愛いお姐ちゃんとうめえこと、おやりになったんじゃねえの』とからかわれては、殴られ、蹴られ」(池部良著「心残りは…」)るといった初年兵教育を受け、そうこうしているうちに1944年2月26日、突然の命令で上海へ。
 
 大都会上海でと思う(池部良は江戸っ子)ヒマもなく軍は移動、「ひどい田舎の廠舎(しょうしゃ)に入った」(「心残りは…」)。4月1日付、少尉に任官。4月17日、輸送船・天津丸とほか3隻は上海を出帆。
その「数日後の真夜中、左方向にいた船団(朝鮮半島から来た)数隻が米軍潜水艦の魚雷攻撃を受け、曼珠沙華の花のような陰気で華やかな炎を高く上げ、瞬時に沈没するのを望見。鮫肌が立つ」。「マニラ港へ逃げこんだが、大本営命令とかで僕たちの師団はハルマヘラ島へ行くことになった」。
 
 「輸送船はセレベス海域に入るやいなや新手の米軍潜水艦に捕捉され、天津丸も魚雷の直撃を受け、どどっと傾いた。全員、武装のまま海に飛びこんだ。(中略)昼の2時ごろ飛びこんで、推定夜の12時ごろ日本海軍の軍艦に救助され、ハルマヘラ島のワシレ湾に降ろされた。このとき5月上旬だったと思う」。
 
 その後の池部良がどうなったか知りたい人のために‥‥。ハルマヘラ島は「汀の50メートル離れたところからジャングルになる島だった」。9月半ば米軍の攻撃に見舞われ、衛生隊長は新歩兵隊編成し他島へ移動。代わりに池部良が臨時隊長に命ぜられ、約50名と共に残る。
「衛生隊とはいえ、ちっぽけな隊だったから、存在さえも危うげな孤児同然。敵を避けジャングルの奥深く逃げこみ、椰子、カエル、トカゲを食べていた」(前掲書)。「それもやがて尽き、食べられるものは雑草を残すばかりとなった」(池部良著「江戸っ子の倅」)。
 
 終戦の報せが入ったのは1945年8月17日か18日。「いつ日本に帰れるのかが頭痛の種になる。10ヶ月後(1946)の6月中旬、米国から貸与されたという輸送船が迎えに来るという報せには天に舞い上がる思いになった」(「心残りは‥」)と記している。
「生き延びたからこそ今があるとは思わない。なぜだか僕の人生の中であの過酷な日々だけは切り離されている。それでも91歳になった今でもときどきあの頃のことが夢に出てきてうなされる」(「江戸っ子の倅」)。
 
 私の父は大正9年生まれで、銀行勤務のあと、池部良より少し早く見習士官から少尉となって大陸に従軍した。いつだったか、1968年7月か8月だったような記憶がある。脇腹のやや背中よりの銃創を見せてくれた。5センチくらいの横楕円形状で中央部がへこんでいた。
子どものころ、父と温泉宿の露天風呂に入ったことは何度かあったけれど、まったく気づかなかったのは、その部分に手ぬぐいをあてていたからかもしれない。戦争経験など一度も語らなかった。その年の11月下旬、父は急逝した。
 
 「男たちの旅路」のやりとり。鶴田浩二が池部良に戦中派の折り目正しい意見を言う。警備会社としては契約先のヘソを曲げたくないだろうが、鶴田は正論を通そうとする。池部良の「吉岡(鶴田の役名)さんよ、」、たったこれだけのせりふにさまざまな思いがこもっている。
 
 池部良の「うん」というのは単なる「うん」ではない、「おまえの気持ち、よくわかるよ。けどな‥」と反論する代わりに「うん」と言うのだ。そいうハラを持って言えば、「うん」だけで相手にも視聴者にも伝わるだろう。
ドラマのなかの鶴田浩二の生き方、考え方に共感したが、最も感慨深かったのはふたりの短いやりとりと「うん」である。山田太一の脚本に池部良の部分的改訂が入ったと思われる。            
 
 池部良と共演した淡島千景が語っている。「あの方は地方弁を使っても似合わない。東京の方よね。スマートな言葉を使って、スマートな恰好をしているのが池部さんじゃないかな」。「池部さんは観察が鋭いの」(「映画俳優 池部良」)。
「早春」(1956)、「暗夜行路」(1959)など池部良30代後半〜40代前半、淡島千景30代前半〜30代半ば。淡島千景は女優としてほぼ完成していたが、池部良はまだ「東京のモダンボーイ」(淡島千景の弁)領域にいて、観察眼は鋭く、しかしスマートな役者にすぎなかった。
 
 経験がすぐ生かされるとはかぎらない。世の中、そんなに甘いものではない。20年、30年の歳月をへて生かされることもある。池部良、鶴田浩二、淡島千景が若かったころ、江戸期に生まれた人々も生きていて、役者になる前も後も先達の生き方、語りくちが日常に散らばっており、生活を通して経験できた。学ぶとはそういうことだ。
 
 江戸、明治の風をはこぶ人たちがすがたを消し、昭和の名優たち、京マチ子のような卓越した女優がいなくなった令和の時代、彼らと共演して役者の真骨頂をまのあたりにし、それを生かせる俳優も激減した。

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