2011-06-28 Tue      英国しか愛せない(2)

 
 懐かしい思い出といえば、子どものころ過ごした家近くの田畑に沿って流れていた小川をせきとめ、逃げ場を失って右往左往するフナやザリガニをとったことや、小川の横を掘りつなぎ支流をつくり、5mほど進んだところに魚、水生昆虫のための「ため池」を設けたこと(これがホントのため池)、そこでやつらを養殖しようと悦に入っていたら、数日後ため池の生き物はよそ者に横取りされ、世の中甘くはないと遊びのなかから人生を学んだことなどである。
 
 あのころ、小川やため池はささやかな自分遺産だった。
ユネスコ総会で世界遺産が採択されたのは1972年、世界遺産第1号が登録されたのは1978年で、ほんの30数年前の話である。制度のすばらしさはさておき、よほど辺鄙な場所でないかぎり、わが同胞においては人気遺産に向かってまっしぐら、それ行け・やれ行け状態の日常化に当惑する。
 
 イングランドのカントリーサイド、あるいはウエールズやスコットランドではさいわいなことに、尊大を絵に描いたような人間に出会うことはほとんどないだろう。かれらはいながらにして世界遺産にまさるとも劣らない自分遺産と共に暮らしている。自分遺産はただちに誇りということばに置きかえられ、賞讃と無縁であっても、落花と散逸をくりかえすだけのあだ花ではなかった。
世界遺産を見学する前はある種の充実感や満足感にひたることを想定して旅する人はいるけれど、見学後に得られるのは見学したという事実だけであることが多く、旅の果実となるであろう追憶と発見を得ることは少ない。
 
 人生はため息のごとく過ぎ去ってゆく。生を慈しみ、支え合うから未来はみえてくる。人とのつながりは記憶のつながりであり、寂寞たる風景のなかで記憶はよみがえる。記憶がつながることによって希望を失わずにすむのではないだろうか。終の旅は英国のほかにない。めぐる季節のあとを追って魂の向かうところは英国である。
                                                     (未完)
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