2002-03-11 Monday
旅の魔力
 
 ギリシャを旅したのは1975年10月だった。ホテルの部屋のバルコニーからアクロポリスを一望したら、やっとギリシャに来たという実感がわいてきた。同時にこれで旅も終わったかと思った。
 
 私が初めて海外旅行に出たのは1969年夏で、夏休みを利用して一ヶ月、ロンドン起点(当時はロンドンへの直行便はなくアムステルダム経由)でドーバーからカレーに渡り、パリまで行ってブリュッセルに入り、ケルン、フランクフルト、ハイデルベルグ、バーデン・バーデン、ルツェルン、ローマ〜ヴェネチア〜ピサ〜アッシジ〜シェナ〜フィレンツエなどを巡る欲張り旅行だった。
1969年頃の私はなんと勉強不足であったことか。日本で売られているガイドブックに紹介されていたヨーロッパの町はほんの一握りにすぎず、情報不足たるや言語を絶していた。名前も聞いたことのない町だらけで、しかも、知らない町は死ぬほど美しかった。
 
 帰国後、国会図書館に日参してヨーロッパの歴史、文化、美術などに関する文献・資料、図説を読みあさった。しかし、半年やそこらで読む図書の数はたかだかしれている。
グレコ・ローマ関連の美術書を読むとヘレニズムに興味が移り、さらにはパルティア、アケメネス朝ペルシア、中央アジア、ガンダーラへと関心が広がっていく。広がりはさらに波及し、複数のものを同時に追い求めた。時間が欲しい、私があさっていたのは文献や図書だけではなかった。東京や京都、奈良には溌剌とした生き仏がいたのである。
 
 ヨーロッパへの憧憬を心に秘めながら、アジアを旅せねばならないと思った。中東諸国、パキスタン、アフガニスタン、インド。ヘレニズムという源流を知る前に、伝播先アジアの遺跡と美術品をみなければならない。結局私は、初めての海外旅行のあとアジアの国々をさまようことになった。
紺碧の空を背景に凛然と立つアクロポリスを見上げて思ったのは、美術とはまったく関係のないことだった。或る人間が天に拒否されるとすれば、この世に満ち満ちた汚辱を持ってこられると迷惑だからではないか。天上は安息の地ゆえ、汚辱をすべて地上で禊ぎ、身ぎれいになってからおいで、それまでは来てはならぬ。いま思えばバカげているとしか思えないが、その時は大まじめでそう思ったのである。
 
 私は実のところアクロポリスをみてはいなかった。アクロポリスという風景を目でみつつ、その時々の心の風景をみていたのである。実際の風景や人との出会いとは別に、自らの記憶の奥に在る風景と出会うために旅に出る。そして生涯忘れられぬ風景に出会う。南西フランス・アルビから北西に20`ほど車を走らせると、眼前に忽然とあらわれる天空都市コルド。黒いマントのような闇が地面をおおう夜、黄金色にライトアップされたロカマドゥールの修道院。10`先から視界に入るシャルトル大聖堂。
 
 ビーコン・ヒルから俯瞰するストーンヘンジ。北海に置きざりにされた孤高の廃城ダノッター城。スノードン山裾野の奇景。荒涼たるムーア。モンセラート、チンチョン。シントラのムーア人の城跡。マフラ修道院図書室の金粉。夕暮れに浮かぶアクロポリス、パルテノン神殿。強烈な光と影が生きることの厳しさと憂鬱を思い起こさせるという点でギリシャはスペインに似ている。生きることとの相違は、ギリシャやスペインの小さな町を旅して時間を忘れることはあっても、生は時間を忘れさせてくれないということである。時間とは何か。子供が小川の右岸から左岸に渉ることである。子供が成長して、いかなる時を生きようと、小川は何事もなかったかのようにさやさやと流れつづけるだろう。
 
 ピレウスから大型客船に乗り、6日間エーゲ海の島々を巡る。船内で朝食後、日中は、ミコノス、クレタ、ロードス、サントリーニ、トルコのイズミールに寄港する。絢爛豪華なディナーパーティが夜な夜な催される。世界各国から集まり、虚飾のかたまりのような観光客が高価な衣装で身を飾り、自慢話に花が咲く。そこに私の居場所などなかった。
そんな光景を眺めながら、都市国家アテネの栄華も長続きしなかったことを、19世紀初めまでトルコに占領され、人権を著しく侵害されたギリシャの歴史を想った。人生は刹那であること、限られた時間をどう過ごすべきかを想ったのである。
 
 愉悦と快楽だけが旅の果実であるなら長きにわたり旅を続けてこれなかったろう。旅が私にもとめたのは思索と自己省察だった。追憶と発見という果実の収穫後、思索と自己省察の種をまくよう私にもとめたのだ。そうして私は旅の魔力に憑かれたのである。

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