2006-09-26 Tuesday
心の風景
 
 いつまでも忘れられぬ風景がある。
それらは世界遺産に登録されている風景とはほど遠い。初めて海外へ旅したとき、世界遺産という呼び名はなかった。あったとしても、長きにわたって心に残る風景は世界遺産に登録された風景ではない。
世界遺産という呼称が魔法の粉なのであろうか、特に日本において喧伝され、そこをめがけて邦人観光客がドッと押し寄せる。なに、多くの歴史的背景につつまれていたとしても、単なる観光名所にすぎないのだが。
 
 英国の魅力は、といっても英国は広いが、英国に数ある世界遺産ではなく、そこから移動する途中の道にハッとする風景が点在し、それがたまらない魅力となって私をとりこにする。ガイドブックも旅行記も優れた案内人とはいえず、むしろ、そこに載っていない風景に魅了されるのである。
 
 いつまでも記憶に残る顔がある。
1999年10月初旬,、霧雨が間断なく舞うハイランドGlen Lionの小道、すれ違う車もないロングドライブをつづけていたら、遠くにかすかな赤い影がみえた。まもなく車が影に近づくと、その人は赤いウィンド・ブレーカーをまとい、マウンテンバイクをゆっくりこいでいた。すれちがいざま、その人はそれ以上できないような柔和な面持ちでほほえんだ。
一瞬の出来事だった。しかし充分な時間だった。何かがこの旅をしっかり守ってくださっている、そう感じるには充分な時間であったように思う。
 
 2002年6月10日から18日間、私と家内は英国へ旅発つはずだった。だが、出発二日前から原因不明の高熱におそわれた私は旅行を断念せざるをえなかった。
1990年9月初め、四日後にローザンヌ起点でモントルー、エビアン、ミッテンヴァルトなどをレンタカーで旅する予定だった。が、出先の京都のホテルで夜中に高熱を出し、翌朝「京都日赤病院」に緊急入院した。
検温したら40度をこえていた。内臓から発する熱で、少なくとも十日間の入院加療が必要であるという。三日後に退院してやろうとがんばったがダメだった。
 
 1999年4月は関空でチェックイン後、空港ラウンジまで行ったが、そこで旅行を中止した。帰国もしてないのに係員に引率されて入管を通った。家内にすまないという気持ちでいっぱいだった。
 
 いつまでも忘れられぬ声がある。
2002年6月の旅行は予約段階では幾つかの幸運にめぐまれた。予約した宿のなかに、日本ではまったく無名のB&Bがあった。イングランド北西部カンブリア州のカーライル(CARLISLE)のB&Bである。カーライルはハドリアン・ウォールズ観光に地の利がよい。わずか3部屋しかないが、一年以上前から2部屋はふさがっている。残り1部屋の予約は、2ヶ月前になるとオーナーの独自の判断にゆだねられるという。eメール、FAX、電話などによる予約申込者のなかからオーナーが決めるらしい。その名も「Number Thirty One」。
 
 私はFAXで予約したが、たまたまその恩恵に浴した。Chewton Glen=チュートン・グレン(ニューミルトン)やラファエル(ミュンヘン)に宿泊するより数倍うれしかった。そして夕食はカーライル唯一のグルマン・マーク「Magenta's」を電話予約した。
その旅行は、パリ経由のAFで南イングランド・サウサンプトンに到着後、空港のAVISでプジョー407をレンタルし、サセックス州のセブン・シスターズやサウス・ドーンズ、コーンウォール州のポルペロー、フォイ、マラザイアンなどを訪れる予定であった。
 
 予期せぬ病ですべてご破算となったが、いまなお耳に残るのは、「Number Thirty One」のオーナーと「Magenta's」の娘の声である。私は彼らに予約取り消しの電話をした。直接、彼らにお詫びをいいたかった。心ある人なら電話でも気持ちが通じるかもしれない。
私の声に無念さがにじんでいたのであろうか、あるいは、そういう口調の異邦人を知っていたのであろうか、彼らの口調には昔なじみの友のように私をいたわる何かがこもっていた。旅行に行けなかったことがあんなにくやしかったことはない。あの声の持ち主にあいたい、心からそう願った。
 
 あれからもう4年数ヶ月たった。あの声はいま私の心の風景となっている。
忘れられないのは、やさしくしたからではない、やさしくされたからである。愛したから忘れられないのではない、愛されたから忘れられないのだ。生きるとはそういうことなのである。

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