2005-06-12 Sunday
コッツウォルズ三題噺

 
 (1)六月のひかり
 
 いうまでもなく季節選びは旅に欠かせない要素である。とはいえ、避暑地を冬に旅する人もいないわけではない。冬期は航空運賃、宿泊費が安いから行くという人もいるし、冬は観光客が少ないから行くという人もいるだろう。
ベストシーズンは人さまざま、ベストシーズンの概念はかならずしも旅行者すべてにあてはまるものではない。京都やプラハなら四季折々のよさがあるから季節にこだわることもないだろう。だが、イングランドのカントリーサイドを旅するなら初夏がいい。
 
 五月の陽光は明るく暖かい。新緑を目にあざやかに映し出す。しかしまだ十分とはいえない、六月のひかりに較べれば。六月の陽光は樹々が地下水を汲み上げるのに力を貸す。そしてその水は、樹々の内部をリフレッシュしたあと涼風となるのだ。六月のひかりが時として強いのは、7月の枯渇にそなえて樹々に多くの地下水を汲ませるためである。
六月はイングランドだけでなく、ウェールズ、スコットランドも美しく耀き、心地よさに身体が反応する。記憶に残る心地よさではない、身体に刻印される心地よさである。六月の英国は旅人に至福をもたらすのだ。
 
 (2)ストーからスローターズへ
 
 ストー・オン・ザ・ウォルドからローワー・スローターへ向かうなら、ふつうはA429号線を南西に下って測道に入るほうがわかりやすく、運転も楽だが、あえてB4068を西に進み、Lower Swellで測道に入って南下した。B4068はA429に較べればかなり道幅が狭い。それゆえ地元のドライバーしか利用しない。測道はさらに道幅が狭く、対向車が来たら減速してすれちがうのがやっとである。そういうこともあってか常にガラすき、車の影さえ見えない。
 
 この測道がなんともいえない。ゆるやかに曲がりくねり、道の両側に繁茂する足の長い極細の雑草が風にたなびき、ゆらゆら揺れる様子ったらない。ドライブの快楽とでもいえばよいのだろうか。この測道をゆったりドライブするだけの目的でイングランドに行くのもわるくない。
名所や観光地だけが旅の目的ではあるまい。ガイドブック、雑誌に掲載されておらず、テレビに紹介されたこともない、そういうところに宝石は落ちている。私たちの心を奪うものは名所と観光地のはざま、途中に在るのだ。
 
 (3)バイブリー・少女
 
 37年間海外旅行を続けていると、さまざまな出来事に遭遇する。そして旅から学ぶことがある。1970年代までは旅先に関する情報不足が著しく、役に立つ情報入手は困難をきわめた。しかし、情報不足を補って余りある想像力によって旅は生き生きしていた。
昨今は情報化社会である。昔はコネといったが、いまはネットワークというらしい。インターネットは以前とは比較にならない膨大な情報を提供してくれる。有難いといえば有難い、が、ネットワークにより旅行の醍醐味が失われたような気がする。どうして?と思う読者のため、誤解と反発を恐れず、かいつまんで記す。
 
 情報量の多さは旅の楽しみを阻み、発見が消失する。私たちが瞠目し、心奪われる風景も、これはあそこで見た写真、それもあのサイトで見た、この景色は雑誌に紹介されていた、あれもこれも見た。即ち、発見は確認となるのである。したがって、当サイトのごとき画像の豊富なサイトへはあまり足を運ばないほうがよい。旅先で新鮮な発見を得るために。
 
 バイブリーですれ違った若い邦人カップルの話。
女はほとんど何もみていない。うつむきかげんにアーリントン・ロウの古い民家を一瞥し、コルン川を足早にかけていった。そのあとを追う男の姿は滑稽で、ツーショットを撮ってくれそうな人間を探す余裕すら女は男に与えなかった。すがるような男の目は滑稽をこえてあわれだった。記念写真なんてイナカモノのすることヨ、女のそんな声が聞こえてきそうだった。
 
 ところでこの女性、バイブリーまで何しにきたのだろう。田舎の風景を見にきたのではなかったのか。旅のプランは女性が立てたはずだ、田舎にあまり興味のない男を説き伏せて。コンクリートの塊なら写真と実物との違いは小さいが、田舎の風景は大いに違う。写真で見るものとは明らかに異なる実物を見て、さしたる思いがなければ旅は必要ないのではないか。私ならそう言うところだ、十中八九ケンカになると思うが。
 
 発見もない、感動もない、ただ確認するのみ。そういう不感症的人間とともに旅しても退屈なだけだ。他人の旅ではない、自分の旅なのだ。記念写真はどうでもよく、立ちどまって風景を眺めれば何かが目にとまる。コルン川の水鳥や少女の動きに、情報で得たものとは異なる何かを感得できたかもしれない。ガイドブックや雑誌とちがい彼らは生きている。
発見と感動を強いているのではない、心の目に入ってこない風景をムリに見ようとするよりは、あてもなく町をさまようか、川辺に腰かけて、少女が水鳥とたわむれる姿を眺めたほうがよいと思うだけのことである。だれがいったか、人は自己から逃れるためにではなく自己を発見するために旅に出るのだと。

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