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広大なムーアを北東に抜けると海に出る。北海である。ヨークからロビンフッズ・ベイへのドライブも忘れがたい。
私はムーアに再会したくて、同じ年の10月1日英国を再訪した。ただし、イングランドではなくスコットランドを。
スコットランドで人の温かさにふれることが多かった。それはちょうどウィトビー(ウィットビー)の陽光のような温かさだった。
ウィトビーの歴史は古く、7世紀にはサクソン人が住み、657年に修道院が建てられたという。産業革命はなやか
なりし頃の18〜19世紀、ウィトビーは造船や捕鯨で最盛期を迎え、現在は保養地として賑わっている。
写真を撮影した「Bridge Street」から「Pier Road」に出ると、シーフード・レストランが軒をつらね、
観光客がそれを物色する。ウィトビー(ウィットビー)はキャプテン・クックが航海につかった船エンデバーでも有名で、
彼が航海訓練を受けにウィトビーに来たのは1746年、18歳のときであったが、長じてエンデバーを
ここで造らせ、1768年から三回もの大航海(ニュージーランド、オーストラリア、ハワイなど)に出ることとなる。
ウィトビー(ウィットビー)の北にステイシィスという漁業の町があって、クックはそこの衣料品小間物屋の徒弟であった。
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ヨークではゆえあって2つのホテルに投宿する羽目となったが、最初のタウンハウス・ホテル「THE GRANGE」の
女性コンシェルジュに観光のお薦めを尋ねたところ、間髪入れず答えたのがヨークシャー・ムーアであった。
応えるのがもどかしいという感じの応対ぶりであり、次いで第2の問い「ロビンフッズベイまで普通に
ドライブしたらどのくらいの時間で行けるか」に対して彼女は、「普通」だと1時間半、急いだら1時間と答えた。
彼女がふだんどういう運転をしているか後でわかった。君、何キロで飛ばしてるの。冗談も休み休みにいいたまえ。
実際、英国の若い女性は一般道路を信じられないスピードで走っている。それにつられてこちらも
というわけにはまいりません。ヘタに事故でもおこしてごらんなさい、旅はすべてご破算ということになります。
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海岸に出るには急な坂を下りる。ということは当然ながら帰路は上るわけで、これが結構しんどい。
私はトレッキングが趣味で、つい最近まで関西の要所々々を歩き回っているが、つれあいはふうふう言っていた。
もっとも、つれあいの平坦路を歩く速さは尋常ではなく、テンポといい持続力といい、ふうふう言うのは私である。
英国を旅して気づくのは、辺鄙でアップダウンのきつい場所にもおおぜいの熟年世代が来るということだ。
ロビンフッズ・ベイにも、若い女子高生に混じって、杖をつきつき急な坂道を上る老女数人をみかけた。
彼女たちから学んだことがある。それは、元気だから旅に出るのではなく、旅に出るから元気だということだ。
家に引きこもってしまうとそれまで。元気だった人も元気でなくなる。外に出ることが元気の源なのである。
このベンチのある場所は風もたいしたことはなく、ご覧のとおり燦々と陽光がふりそそいでいるが、
一歩海岸に下りると別世界、北海から吹き寄せる風は真冬なみで、頭の芯がキュッと痛くなるほどだった。
ロビンフッズ・ベイには一軒のレストランもない。そこも気に入った。食事はウィトビーかスカーバラで摂る。
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私たちがヨークを訪れたきっかけは、1996年10月初旬プラハで出会ったヨーク在住のご夫婦である。
お互い島国という共通点のせいでもないだろうが、なぜかしたしみやすい。英語で話せるということも
一役買っているのであろうし、ドライブしていて標識の土地名がわかりやすいということにもよるだろう。
しかし私はちがうことを想っている。それは、一部のラテン系の人々のように会ってすぐ親しくなると
いうこともなく、だからといって排他的でもない自然体が心地よいのである。英国は大人の国である。
人間がしっとりとして深い。ねっとり深いのを好むムキもあるが、それはそれ、わるいことではあるまい。
英国の熟年層はただしっとりしているのではない、多くの哀歓のなかにいいしれぬユーモアが
隠し味となって存在する。彼らの笑顔は、なんといおうか、何年経っても記憶に残る笑顔なのだ。
英国教会・大司教のおわしますヨークミンスターは1220年から1472年にかけて建設。大司教のおわすのは
こことカンタベリーのみである。ヨークの歴史は古く、ヨーク市長はロンドン市長に次ぐ地位を占めている。
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ヨークはかつてローマ人が支配し、撤退後はバイキングが侵入(9世紀)、破壊と略奪行為を繰り返した。
コンスタンティノープルの建設で名をはせたコンスタンティヌス1世は、皇帝である父コンスタンティウス1世が
スコットランド遠征途上、ヨークで没したために同地で軍隊の手によって皇帝に推戴されることとなったのだ。
ヨークミンスターはローマ時代の要塞のほぼ真上に建てられており、地下部分で発掘された建物の
遺構や出土物が展示されている。ミンスターの地下にあったローマの司令部には36本の柱が
めぐらされていたが、そのうち1本が現在もミンスターのそばに建てられている。
ミンスターの名は、この場所の一部が修道院付属の教会堂になっていたからで、敷地内には
7世紀初期に建造されたという教会堂があったそうだ。
アルフレッド大王(849−899)がウェセックス王に即位してからは敵同士(アングロ=サクソンとデーン人)が
徐々に共存共栄を模索。その後紆余曲折を経て、ノルマンディーの領主であったウィリアムが身分の低い貴族と
傭兵を引き連れて11世紀に乗り込んでくる。イングランドを征服したウィリアム征服王の到来を境に
ノルマン人封建領主や司教の力は強大となり、公用語も彼らの日常語フランス語やラテン語となった。
ヨークミンスターの建立の背景には、祈りと聖歌を捧げることにより天国に召されたいという司教の意志と、
他方で、当時ヨークに住み、ヨーロッパ諸国や諸都市と交易していた商人ギルドの存在があった。
ギルドは儲けの一部を積極的に寄付した。当時の商人でひと儲けした者のほとんどが狡知に長けていた
であろうし、また、そんな者たちが死後天国に召されたいと願ったのも当然の成り行きであろう。
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ヨーク旧市街を取り囲む城壁「CITY WALLS」は全長4qで、壁の高さは4.5〜6bである。
ここを歩くと、ヨーク市内の名所ほとんどが一望でき、恰好の散歩道として市民の支持を得ている。
「ヨークミンスター1」もCITY WALLSから撮影した。チェスターにも同様の城壁がある。
WALLSから家や庭を観光客に見られる一家はタイヘンで、屋根、外壁、庭などをきれいにして
おかねばならないが、それが双方にメリットをもたらしているような気もする。ヨークは美しい町なのだ。
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WALLSの中にはみるべきものが多く、一つ一つをつぶさに見学すれば三日はかかる。
クリフォード・タワーからの見晴らしはよく、ヨークミンスター、ウーズ川も一望できる。
クリフォード・タワーはウィリアム征服王の築いた高台に1245〜62年にかけて建設された
ヨーク城の本丸で、17世紀末までは軍事要塞でもあった。ヨーク観光に欠かせない場所。
ここまで来ると、建物がほとんどないせいか実に清々しく、特に黄昏時の光景は
ヨークを忘れがたい町とするだろう。クリフォード・タワーに上ったのは、
とっぷりと陽が西に傾き、空気の色が琥珀色から橙色に変わる瞬間だった。
古色蒼然とした町の夕景は古い歴史を偲ばせるには十分なものであるが、陽が沈む前の空の
耀き、凜として澄みきった空気は、自分自身の歴史、心の風景を想起させるに十分であった。
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狭い通りに昼夜を問わず観光客の集まるシャンブルズは、1930年代までほとんどの店が肉屋であったという。
シャンブルズの語源シャメルは肉をならべた台のことで、突き出た軒にその名残をとどめている。
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英国にかぎったことではないが、地方へ田舎へ行けば行くほど水も空気もおいしい。
そしてまた信仰心もそれに比例して篤くなるように思う。そういう地方の町や村を旅して
教会、聖堂、あるいは修道院の前にたどり着くといつもホッとする。そこは間違いなく
町の中心に位置し、生臭といえども聖職者が信仰の途上にいるからである。
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