時の関白・藤原忠実が自らの日記「殿暦」に「奇怪なる事」と記したのは、白河院寵愛の璋子を孫の鳥羽天皇の中宮にしようとすることだけでなく、璋子がしばらくのあいだ鳥羽天皇に「肌を許さなかったことである」という理由からといいます。
璋子は白河院の愛妾・祇園女御の養女であり、白河院の養女でもあり、しかも院は可愛さが昂じて璋子と性的関係をもっていました。そこまでなら平安期貴族によくみられる好色ということで片がつくでしょう。忠実のいう奇怪は陳腐にほかなりません。
しかし孫の嫁を懐妊させるとなると事情は一変します。「古事談」(13世紀初期の説話集)によると、鳥羽天皇は誕生した後の崇徳天皇(1119−1164)を叔父子と呼んでおられました。崇徳帝は父堀河天皇(白河院の子)の弟にあたるからです。「中右記」(藤原宗忠が1087年〜1138年に綴った日記)によれば、「人々秘して言はず。また問はず。何事も知らざるなり」とあります。
鎌倉期に編纂された「古事談」の編者・源顕兼は藤原定家と親交があったようですが、白河院とも関係者とも接触のあった藤原宗忠の「中右記」のほうが信憑性は高く、日記に記された内容を鑑みれば疑いの余地はないでしょう。
崇徳帝誕生の1119年夏は璋子が満18歳をむかえる一ヶ月前、白河院65歳でした。老いてなお烈々たる最高権力者・白河院は、孫の子が自分の子という事実にいったんは驚かれたと思われます。が、65歳という年齢、愛してやまない璋子に自分の子を産ませることを思うと、ある種の欣快に至ったのではないか。権力者に許容される光悦というよりむしろ倒錯ではないか。
白河院の神仏参詣は有名です。角田文衞著「平安の春」を紐解くと、「賀茂神社、石清水八幡宮、日吉神社などは法皇が最も尊崇されるところであって、これらへの参拝は頻繁に行われ」、「法皇の願趣は、息災、延命といった個人的な性格が強く、鎮護国家といった色彩に乏しかった」のですが、特に熊野神社へは1090年から1128年にかけて12回お詣りされているとか。
璋子の懐妊を知った白河院がじっとしているはずはなく、1119年正月から出産前の五月までに安産祈願を合計7回発願されました。1125年には、自分の子でもない、鳥羽天皇の子を身ごもった璋子のために、「法皇は大般若経の一部を石清水八幡宮に、法華経千部を日吉神社に施入・供養し、待賢門院の安産を祈願されている」(「待賢門院璋子の生涯」)と記録に残っています。
ふたたび「中右記」ご登場を拝し、その語るところによれば、「後三条院(白河院の父)の崩後、天下の政をとること五十七年。意に任せ、法に拘わらず除目(じもく)叙位を行ひ給ふこと、古今いまだあらず。威は四海に満ち、天下帰服す。幼主三代の政をとり、斎主六人の親と為る。桓武より以来、絶えて例なし。聖明の君、長久の主と謂ふべきなり」。
当時、「中右記」や「殿暦」などの日記は貴族社会におけるメディアの役割を担っていたのでは。日記を記す人間が何を思い、何を残そうとしていたか推理するほかないのですが、推理する人間の経験量、探求欲、分析力次第でおおよその見当はつきます。
日記がメディアなら執筆者はジャーナリスト。末法の世にあって最高機密に等しい事実が洩れ伝わる都で、日記執筆者は強迫観念にとらわれることもあったでしょう。
常に過不足のない文章を書けるとはかぎらず、おおむね漢文で記される文章の内容より文の上手下手を気にする作者もいたはずで、下手と思っても、紙は高価だし、次々破くのも情けない。思い悩んだ末がこれかと思えば業腹。
書き上げて、数ヶ月後に読み直しても一から書き直すには紙と墨が要る。室町期でさえ紙は貴重品で、当時の都大路に紙くずは落ちていません。
「京都故事物語」(奈良本辰也編)に、「一度使用された紙(下書きなど)はもう一度裏面を利用され、後にすき返しといって、特別に反故紙ばかりを集めて漉(す)きなおす反故座(専門の職人組合)に買い取られてゆく」云々と記されています。平安期、紙の価値は推して知るべしです。
手紙を新たに書き直すには、紙を得る代価も必要であり面倒でもあり、面倒をものともせず書き直した人もいたでしょう。21世紀はなんと便利なことよ、紙も墨も不要、簡単にどこでも書き直しできるし、嗚呼。
しかし、どんなに便利な世になっても、紙と墨のように恒久的ではありません。第一、平安期貴族、僧侶の達筆をご覧じろ。かりに原本が紛失、あるいは焼失していても、たしかな写本があればほぼ問題なし。それに較べればなんとパソコンの没個性的でお粗末なことか。
その点、現在のジャーナリストはお粗末。自省自戒の念乏しく、諧謔の心はさらに乏しい。自虐の心のみ発達し自重なく、自重は上の命令により決せられ自嘲する。新聞記事もニュースも、どうせ浮世のなぐさめ、いや、なぐさめにもならず、一日どころか半日で忘れ去られる。反骨心どこへやら。当たらずしも遠からずならまだしも、当たっているから仕方ない。
璋子が白河院の意向により女院に列せられたのは1124年11月のことで、待賢門院と命名されました。「平安の春」によると、「院号は法皇の自由裁量。(中略) 天皇や中宮とは違って、上皇や女院の行動は制約がゆるやかであって、御幸も自由であった」。
そして、「一院(いちのいん=白河法皇)、新院(鳥羽上皇)、女院(待賢門院)の三院は、法勝寺、白河殿、鳥羽殿などへ絶えず御幸したし(中略)、法皇と上皇は睦まじく同車し、女院の車があとに続いた」。三院は1125年〜1128年にかけて毎年計4回、熊野三山・参詣を実施されています。
当世の常識では考えられないことですが、天下を睥睨した白河院の意にかなう模様ゆえ可笑しくもあり、ドラマ化するのは皇室に憚られるので、書に著すとか、こういう場所に書き記すほかありません。
京都 法金剛院蔵 待賢門院璋子像 晩年

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