2019年1月14日    西行の時代 待賢門院璋子(2)
 
 待賢門院璋子を日記「殿暦」(でんりゃく=重文)に「奇怪なる」と評した藤原忠実について言及しなければなりません。藤原道長=藤原頼通=藤原師実=藤原師通(藤原四代の父子。道長は摂政。師通は関白。ほかは関白太政大臣)と続く藤原北家の惣領となる忠実は、白河法皇に批判的だった師通の子です。
 
 師実(1042−1101)正室の姪が白河法皇の中宮・賢子(1057−1084 堀河天皇の生母)。白河院が最も愛したのは賢子であるといわれ、賢子は師実の養女となり、その関係により師実は白河院のおぼえめでたく、栄達の道を進みます。
 
 藤原氏の摂関政治は師実のころまでほぼ順調でしたが、師通(1062−1099)急死のあとを追うかのように師実も薨去し、忠実(1078−1162)は20代前半にして強力な支援者を失います。
興福寺(藤原氏の氏寺)別当解任の意志が固かった白河院をなだめようとして逆に院の不興を買ったということもあり、忠実の地位は次第に怪しくなるのです。
 
 白河院が藤原一族による摂関政治を脱却し、忠実は法皇中心の院政を盛り立てるためのスケープゴートにされたという見方もできないわけではない。ほんとうに白河院が立腹したかどうか怪しいものです。不興は忠実を遠ざけるための口実だったのかもしれません。
 
 忠実にしても自分の怪しさを棚に上げ、男遊びに興じた璋子を奇怪というのは奇っ怪。保元の乱前後の忠実は奇怪そのもの、それは「保元の乱」の章で述べる予定です。
仮名手本忠臣蔵六段目の勘平のせりふ「色にふけったばっかりに」は名せりふのひとつ。色にふける相手は塩治(えんや)家の女中お軽で、のちに勘平の女房となります。平安貴族においては単に色にふける男女が多く、倫理観も薄い。璋子の色事をけしからんと思う人は院のほかにいたのでしょうか。むしろ面白きことと思う人が多かったはず。
 
 いきなり紹介するのは「西行花伝」(1995年4月30日刊)付録の見開き1枚4頁の1頁目、著者辻邦生の一文です。
 
 「摂関家の内紛も、源平の盛衰も、日本人の了解の射程のなかにあることを前提にして、わざわざそれを詳細には書かず、時代のどよめきとして、人物たちの周辺に配置した」。
こんなふうに記されると、「西行花伝」がすばらしいだけに詳細を知りたいと思うのは至極当然ではありませんか。そして辻邦生は続けます。
 
 「しかし真の主題は美と現実の相克であり、とくに待賢門院と西行の恋、崇徳院と西行の対決のなかに、それがあぶり出されるように書き進めた。私自身が現実を超え、美の優位を心底から肉化できなければ、この作品を書いても意味がない。そんなぎりぎりの地点で生きていたような気がする」。
 
 名作は作者の心のありようと魂の具現化であり、それに加えて、「西行花伝」の場合は肉化の成就なのです。史実の一部を拡大解釈するでもなく、璋子の生き方を美化するのでもなく、璋子の魅力を西行に重ねて辻邦生自身の造形美を追求し、幽艶と豊満を顕現する璋子、平安末期という舞台に立ち、都と山野を翔る西行をつくりあげてしまった。見事です。
 
 
 面白きことの多い高位貴族邸は、江戸期、儒教的倫理観にしばられていた大奥とはまったくちがい、大奥なら危険な火遊びとみなされ、それ相応の処分が下されるでしょうに、平安期の密通は「密かに通う」程度の認識しかなく、璋子は白河院の特別のお気に入りということもあり、表だってものいう人もなく、忠実にしても「殿暦」に記すだけ。
 
 下級貴族の娘であれば、高貴な家に仕えては主人に犯されること日常のごとしで、産まれた子は認知などもってのほか、全員僧籍に入れらました。
身分の低くない女性でも、合意の上かどうか定かではありませんが、角田文衞「待賢門院璋子の生涯」によると、忠実の子・関白藤原忠通が齢66歳(1163)のおり、出家して円観を名乗っていたにもかかわらず、「白昼、侍女の五条(摂関家司・源盛経の娘)と局でさかんにくながいしているところを目撃されている」と書いておいでです。
 
 記事は「明月記」嘉禄元年(1225)の条に記載されています。忠通は翌年(1164)薨去。前年まで励んでいたということです。ところが1163年同時期、五条が兄・源経光とくながいするのを忠通が見た(「明月記」)というから恐い。
王朝の雅もヘチマもあったものではありません。忠通と五条はともかく、五条と兄の一件と忠通の目撃は流言飛語の可能性大。事実であったとしても、定家がなぜ「明月記」に書いたのか疑問。この部分の叙述は「暗月記」です。くながいはいうまでもなく性交。
 
 璋子は鳥羽天皇の中宮となったあとも白河御所(左京区岡崎)に召されること多く、鳥羽天皇も院政の実権を握る祖父(白河院)に逆らえず黙認した。忠実の批判はときに無視され、ときにかわされ、璋子の立場と行動は白河院によって保障されていたのです。
 
 若い鳥羽天皇に較べると、「璋子の心は、ひたすら法皇(白河院)を慕っていたし、法皇の老練な愛撫に馴らされていたから、天皇との房事はただ煩わしく、なんら喜悦を覚えなかったようである」(待賢門院璋子の生涯)と記されおり、「西行花伝」の含みのある描写よりリアルな表現となっているのは、史家と作家の手法のちがいもあるでしょうけれど、角田氏の特異性ともいえます。
 
そんな日々が続いた1118年秋の日のことです、璋子の受胎が告知されたのは。都の片隅において佐藤義清が誕生したのもその年でした。
 

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